OPINION

ナチスから逃げ、ハマスの攻撃を生き延びる 「ホロコースト国際デー」に振り返る我が人生

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独ベルリンにある「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」/Markus Schreiber/AP/File

独ベルリンにある「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」/Markus Schreiber/AP/File

(CNN) 「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺) 犠牲者を想起する国際デー」を迎える中で、共有せずにはいられない物語がある。私自身についてのその物語は、歴史上最も暗い部類の章に記されている。

私はドイツで1935年に生まれた。ナチス政権下の「水晶の夜(訳注:1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害)」から、昨年10月7日に発生したパレスチナ自治区ガザ地区との境界にあるキブツ(農業共同体)、ジキムへの攻撃に至るまで、私の人生は、一貫して選択の余地のない破壊と恐怖、そこからの回復と生存とを証明し続けてきた。

だからこそ、私の物語は語られ、聞かれなくてはならないのだが、今年の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」においては、従来にも増してそのような状況になっている。

水晶の夜の炎が家族に迫った時、私はまだ3歳半だった。幼いながらもあの晩の記憶は魂に刻まれている。両親のベッドの下に隠れていると、外からの煙の臭いがした。ナチス親衛隊がドアを破り、父を連れ去った。

父はそれきり戻らなかった。

ナチス支配地域からユダヤ人の子どもたちを組織的に救出する取り組み「キンダートランスポート」が、その後の私たちの命綱になった。これにより、きょうだいと私は恐怖から救われた。アウシュビッツで父を、ウッチ・ゲットーで母を待っていたのはそうした恐怖だった。2人はそれぞれの地で亡くなった。

私は1939年に英国にたどり着いた。両親と祖国を失い、苦境に立つ1人の子ども。環境に適応することが、身を守る手段になった。痛みが消えることは決してなかったが、新しい人生を受け入れた。

ホロコーストとハマスの攻撃を生き延びたミリヤム・ベイト・タルミ・スピロ氏。1939年に撮影した当時3歳の自身の写真を掲げる/Yossi Zeliger
ホロコーストとハマスの攻撃を生き延びたミリヤム・ベイト・タルミ・スピロ氏。1939年に撮影した当時3歳の自身の写真を掲げる/Yossi Zeliger

第2次大戦終結から10年後、私はイスラエルに移住した。歓迎を受け、その土地で暮らすことになった。比較的穏やかな場所。私にとっては安全な場所だった。

昨年の10月7日までは。

水晶の夜から85年を迎えるほんの数週間前、イスラム組織ハマスが境界地帯のイスラエルの共同体に攻撃を仕掛けた。1200人を残虐に殺害し、250人を人質に取った。私のキブツの静寂は戦場の激しさへと一変し、銃声が周囲の空気を切り裂いた。建物のガラスは砕け散り、私がそこに見出していた安全な感覚も吹き飛んだ。

恐怖を目の当たりにし、自分に言い聞かせた。「怖くはない。私は恐怖がどんなものか知らない。こういうことには慣れている」。外で銃声を聞いてから隠し部屋に12時間隠れていると、歴史は繰り返していると痛感せずにいられなかった。ジキムの軍隊の勇敢さに助けられ、私をはじめとするキブツの構成員は生き延びた。しかしまたしても、非常に多くの犠牲者が出た。

2日たってもまだ、悲劇の詳細は把握できていなかった。私たちのキブツの他にも21の共同体が被害に遭った。私は家を出た。荷造りする30分間、静かな既視感を覚えていた。

1938年11月、「水晶の夜」の襲撃後、ベルリンのユダヤ人所有の店舗で割れたショーウィンドーを眺める通行人ら/Universal Images Group Editorial/Getty Images
1938年11月、「水晶の夜」の襲撃後、ベルリンのユダヤ人所有の店舗で割れたショーウィンドーを眺める通行人ら/Universal Images Group Editorial/Getty Images

自宅を退去せざるを得なくなったのは人生で2度目だが、今回はいつまでも離れているつもりはない。自分の国で難民になることも拒否する。もう4カ月近く、スーツケース一つでホテルの部屋に滞在しているが、希望を失ってはいない。

24日、私は光栄にも「キンダートランスポート」によって救出された他の生存者たちとある賞を受賞した。子ども時代の私たちの苦難と強靭(きょうじん)さを表彰するもので、場所はエルサレムのイスラエル大統領官邸、ホロコーストの被害を語り継ぐ教育プログラム「インターナショナル・マーチ・オブ・リビング」と提携したイベントでの受賞だった。この重要な表彰は、ユダヤ人の子ども1万人に対する歴史的な正義としての役割を果たす。彼らはホロコーストの恐怖を逃れ、難民になった。何もかも置き去りにし、家族とも別れて。

しかし、そのような恐怖を2度も経験するなど、あってはならないことだった。本来は誰であれ、1度だって経験するべきではない。

だから私にとって、今年の「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」はこれまでと異なる。過去の出来事のみならず、現在をも象徴する日となっているからだ。水晶の夜の炎は消えたかもしれないが、10月7日に燃え上がった新たな炎が再び家々を襲った。人々の命と夢とを、焼き尽くしてしまった。

それらの炎を消すのは私たちの仕事だ。だが彼らの引き起こした破壊を記憶し、失われたものの再建に取り組むのもまた、私たちに課せられた仕事である。

今回、私は無力ではない。絶望に打ちひしがれてもいない。必ず家に戻ることができるだろう。攻撃のわずか数日前、庭に1本の木を植えた。戻ったら、その世話をするつもりだ。

そして心の中で、孫たちが将来その木の実を食べるだろうと確信している。

ミリヤム・ベイト・タルミ・スピロ氏は、ホロコーストの生存者。イスラエルに移住し、ジキムのキブツで暮らしていたところ、ハマスの攻撃を受けた。記事の内容は同氏個人の見解です。

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