OPINION

ヘンリー・キッシンジャー氏が決して理解しなかったこと

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(CNN) 彼の送った生涯は、ありそうにないものだったと同様に、重要な結果を社会へもたらした。ヘンリー・キッシンジャー氏は、ドイツの小さな町フュルトにある小規模なゲットー(強制居住区)で生まれた。祖父母はナチスに殺害されたが、同氏は何とか逃げ延びた。本人と両親、弟は1938年後半に米ニューヨークへ移住した。ドイツを出たいなどとは全く思わなかったが、一家に選択の余地はなかった。

ジェレミ・スリ氏/Korey Howell Photography
ジェレミ・スリ氏/Korey Howell Photography

他の多くの避難民と同様、一家には新しい暮らしへの備えがなかった。華奢(きゃしゃ)な体つきだった15歳のヘンリー少年は英語が一言も話せず、将来への期待もほとんど持てずにいた。マンハッタンの公立高校に通い、夜は働いて家計を助けた。同時に会計士になるための準備も進めていた。それはニューヨークに住むユダヤ人移民としての無理のない目標だった。

日本軍による真珠湾攻撃並びに米国の第2次世界大戦参戦は、米国と同様にキッシンジャー氏の運命も一変させた。同氏は陸軍に入隊。ユダヤ教正統派の信仰が根付いた家庭から初めて離れ、米占領軍の一員として再びドイツの地を踏んだ。ここからが、同氏にとって真のキャリアの始まりだった。その後コスモポリタンの賢人としての地位を確立する同氏は、生涯にわたって権力を追い求めていく。さらには米国と世界の命運をも決定づけることになる。後々まで尾を引く、物議を醸すやり方で。

当時の米国の指導者たちが強く求めていたのは、ドイツ社会を熟知しつつ米国に対する愛着も持つ、優秀な若者たちだった。キッシンジャー氏はこの条件に見事に合致した。見た目や雰囲気こそドイツ人的だが(それは生涯変わらなかった)、ユダヤ人としてのその生い立ちは、同氏が決してナチスに共感しないことを意味した。米国人からの信頼をつかんだ同氏は戦後も1年間陸軍に残り、米国の影響下での新たなドイツを作り上げるべく働いた。それは欧州における戦後秩序の土台となった。

陸軍の推薦状と復員軍人援護法のおかげで、キッシンジャー氏はハーバード大学に入学する機会を得た。通常より年長の学部生となったが、戦前では考えられないことだった。難民経験を持つユダヤ人であり、裕福でもないなど、同氏は大学教育を受けるのに不利になる条件を複数抱えていたからだ。ハーバード大でキッシンジャー氏は、欧州から移住した新世代の学生、学者との関係を築いた。彼らは米国が世界を主導するのに協力する決意を固め、新たな全体主義体制による文明破壊を阻止しようとしていた。ここでの体制とはソビエト連邦を指す。

キッシンジャー氏にとって、生涯の使命となったのは次のことだ。力を行使し、米国(と自分自身)を奈落の底に対する防壁、あるいは光となる地位に押し上げる。この光とは、自身が目するところの徐々に忍び寄る暗闇を照らす存在に他ならない。人類に対する脅威についての悲観論から、同氏は米国が優位に立つ状況を切望するようになった。核兵器の存在する世界ではとりわけそうだった。米国が強さを発揮することで、新たな災厄の発生を食い止めるのだ。国務省の外交局にこそ所属しなかったものの、キッシンジャー氏は外交と軍事が交差する領域に目を向けていた。そこで起きる出来事が、その後の状況を長きにわたって左右した。

ハーバード大学で博士号を取得、同大教授を経た後、キッシンジャー氏は瞬く間に権力の高みへ駆け上がり、決してそこから去ることがなかった。上記の使命が、歴代大統領や財界のリーダーをはじめとする多くの人々の共感を呼んだからだ。キッシンジャー氏は休むことなく働き、この使命を追求。戦争と外交を研究する学者として、米国主導の西側諸国の同盟強化に尽力した。欧州におけるこの同盟の下、各国の主要な指導者らは軍事や経済、外交上の協力関係を育んだ。

ニクソン政権とフォード政権で国務長官を務めた同氏は、中国や中東をはじめとする他の多くの地域へ自身の政策対象を拡大。同氏が道を開く形で、米国と共産中国は初めて直接的な関係を結ぶに至った。これにより、米国はアジアでソ連より優位に立つことが明確になった。当時ソ連とアジア地域との関係が悪化したためだ。イスラエルと近隣のアラブ諸国との間で起きた1973年の戦争の後、キッシンジャー氏の計らいで米国は中東における重要な外部勢力となった。イスラエルやエジプトなど、米政府と連携する一方でソ連政府を脇に追いやる意向の国々に対しては、米国が最大規模の援助並びに軍事支援を提供した。

キッシンジャー氏は常に1人の難民であり、大規模な残虐行為を逃れて米国にやってきたことを自覚していた。その上で、米国なら何らかの方法で人間を完全な存在にすることができると信じる人々を非難。かつてのウィルソン大統領が掲げた理想主義的な衝動は単純であり危険だと断じた。憎悪と暴力は、社会に対する同氏の視点に常に影を落とした。

キッシンジャー氏は米国の力をよりよい選択肢、まだましな方の選択肢として用いたいと考えていた。人類の最良の部分を救済しつつ、人間の弱さと欠点に由来する被害を制限するのが目的だ。そうした論法が同氏を暗い場所へと追い込んだ。まさにそのようなやり方で同氏は、ベトナム戦争時におけるベトナムとカンボジアでの激しい爆撃を正当化しようとした。この爆撃では罪のない人々も亡くなったが、同氏の主張によればそれは本人が見なすところの格段に大規模な苦難を阻止するためのものだった。共産主義の専制国家には、そのような苦難が付いて回るという。

同様の説明は米国がチリ、アルゼンチン、ブラジルをはじめとする南米の抑圧的な体制を支持した際にもなされた。加えて同氏はイラン、エジプト、韓国、インドネシア、パキスタンの独裁政権に外交面で肩入れする上でもそのような理屈づけを行っている。これらの独裁政権がもたらすのは安定であって、社会の混乱や対立ではないというのがその主張だった。そうした国々の社会はまだ民主制に向けた準備が整っていないと、同氏は見なしていた。

同氏が基盤とする価値ある使命は一線を越え、ベトナム、中南米、イランではまさに自身が阻止を目指していた部類の悪夢が引き起こされた。過度な米国の力と、過度な支援で反共を掲げる独裁者に味方したことが、それ自体に起因する災厄をもたらした。

こうしたそれぞれの社会で起きた死や破壊、苦難こそが、疑う余地もなく事実を裏付けている。米国内でのキッシンジャー氏の政策に対する強い抗議と、死去に当たってさえ巻き起こった本人への怒りの声は、米国の力を巡る同氏の揺るぎない専心がいかにして再三人々を傷つけてきたかを明示する。そうした力は本来、人々に寄与するものとなるはずだった。

キッシンジャー氏の生涯とはそれゆえに、進歩を語る寓話(ぐうわ)であると同時に、傲慢(ごうまん)がもたらす悲劇でもあった。同氏は誇りを持ってアメリカン・ドリームを生きた。自身のような数百万人の人々にとって、世界をより安全にした。他方で独善を受け入れ、力に執着し、それによって展望を見誤った。その知性を総動員しても、同氏は米国の力がいかに深刻な脅威となり得るかを全く理解していなかった。その行く手に立ちはだかる人々をどれほど深く傷つけ得るか、決して理解しなかった。

良くも悪くもキッシンジャー氏の生涯は、前世紀における米国の力の物語だった。だからこそ、同氏は極めて重要な存在となる。その死は、米国の持つ力がこれまで何をしてきたのか、今後どうなる可能性があるのかについて考える機会を与えてくれる。

ジェレミ・スリ氏は米テキサス大学オースティン校で歴史学部の教授を務める。「Henry Kissinger and the American Century」をはじめとする11冊の書籍の編著者。ポッドキャスト番組「This is Democracy」の共同司会者でもある。記事の内容は同氏個人の見解です。

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