フランシス・ケレ氏は、学校に通うために7歳で実家を離れた。故郷ブルキナファソのガンド村には学校がなかったのだ。それから13年後、彼は木工技術を学ぶため奨学生としてドイツに渡ったが、いつかは故郷に戻って学校を建設することを夢見ていた。
その夢は実現した。建築家になったケレ氏は、2001年に初の作品となるガンド小学校を建設。このプロジェクトは彼のキャリアの出発点となり、今もなお彼の精神的な指針となっている。故郷の村をはじめアフリカ各地の地域社会を、社会的配慮に基づく設計で変革してきた56歳のケレ氏は、今や建築界において偉大な人物の1人に選ばれている。
「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー賞の主催者は15日、22年の受賞者にケレ氏を選んだと発表した。
ケレ氏は主に学校、保健センター、コミュニティー施設を手掛けて、アフリカの建築家として初めてこの偉業を成し遂げた。43年の歴史あるプリツカー賞はこれまで象徴的な建物の建築家を表彰してきたため、こうしたプロジェクトは以前なら控えめすぎると考えられる可能性もあった。受賞の知らせを聞いた直後、CNNの取材に応じたケレ氏は、受賞できたのはガンドの地域コミュニティーのおかげだと語った。
「これは自分のためだけの賞ではない」と、ケレ建築事務所を構えるドイツ・ベルリンからの電話で彼は語った。「故郷に帰る勇気と、私のキャリアの原点となった学校建設という旅路に参加する仲間がいなければ、これを成し遂げることはできなかっただろう」
ガンド小学校。ケレ氏が2008年に拡張工事を完了させた後に撮影/courtesy Francis Kere/Pritzker Architecture Prize
泥をコンクリートのように固め、輸入品よりも地元の材料を採用したケレ氏は、地域コミュニティーの強化と気候危機に対応した建築ビジョンを提案している。そのため、15日のプリツカー賞の発表は、ケレ氏のみならず、「バナキュラー」建築(地域の気候や材料、建築の伝統に対応したデザインを表す用語)そのものへの賛同を意味するものである。
ケレ氏はその後、大規模なキャンパスや2つの国会議事堂など、より大きなプロジェクトを手掛けてきたが、彼の手法はガンドで確立された原則に基づいている。海外から学校建設の資金を調達したケレ氏は、現代的で持続可能な5600平方フィート(約520平方メートル)の施設を計画し、ガンド村に戻った。村には電気もエアコンもないことを知っていたケレ氏は、間接的に太陽光を取り込みながら、自然換気のための空気の流れを生み出す窓を戦略的に配置することを提案した。
だが、地元の職人たちと密接に協力しながらも、素材選びでは抵抗に遭ったという。コンクリートで固めても自然冷却が可能な伝統的な粘土れんがは、ガラスや鉄に比べて雨季に耐えられないと、村人たちから歓迎されなかったのだ。ケレ氏はこれまでのキャリアを通じ、村人たちが現代的な素材を進歩の概念と直感的に結びつけようとする場面にたびたび直面してきたという。
「地元のものはすべて原始的だという感覚がまだ残っている」とケレ氏は言う。「例えば、ブルキナファソでは9割の人が粘土を使っているとする。だが、彼らはそれを『貧しい人が使う材料』と見なしているため、お金に余裕ができると他の素材を探そうとするのだ」と説明した。
マリ首都バマコのマリ国立公園でケレ氏が設計した建物/courtesy Francis Kere/Pritzker Architecture Prize
「西洋の世界、そして西洋のコミュニケーションの取り方は、時に西洋のものは最高だと思わせることがある。地元の材料が気候危機の解決策になりうること、社会経済(開発)の面で最良の選択肢になり得ることを考慮することなく、西洋のものは他者から最高であると認識されるのだ」
「地元の素材を使えば使うほど、地域経済を促進し、地元の知識を深めることができる。これによって人々は誇りを感じるのだ」
地域社会に力を与える
成功の転機となったガンドでのプロジェクトが終了してからの20年間、ケレ氏は村の図書館、教師用の住居、そして08年には学校の収容人数を大幅に増やすための増築計画を実現させた。また、さまざまな状況に応じて手法を変え、ブルキナファソでは12件近く、セネガル、ウガンダ、トーゴ、スーダンなど大陸各地でプロジェクトを完成させた。
モザンビークのベンガ・リバーサイド住宅地では、既存のバオバブの木や低木、在来種の草をデザインに取り入れ、日陰を作り、ほこりを含む風から家を守るようにした。一方、ケニアのSKF―RTL子供学習センターは、現地で生産された圧縮土れんがを使って建てられた。
ブルキナファソ・ラオンゴに建設中の文化プロジェクト「オペラ村」/courtesy Francis Kere/Pritzker Architecture Prize
いずれの場合も、ケレ氏の作品はデザインだけでなく、プロセスも重要だ。ケレ氏の話によれば、地元の職人と仕事をすることは、地域の建物に対する所有権を分け与えるだけでなく、将来の収入につながる職業技能の開発にも役立つという。16年の受賞者、アレハンドロ・アラベナ氏が審査委員長を務める今年のプリツカー賞の審査講評では、ケレ氏を以下のように評している。「彼は、建築とは物体ではなく目的であること、製品ではなくプロセスであることを理解している」
大工の経験を持つケレ氏は、建築家であると同時に建設業者としての視点も持つ。「手仕事や、材料を切ったり組み立てたりすることに、私は魅了されたものだった」「そして私は知らず知らずのうちに、自分の建築作品でも同じようなことをしようとしている」
ブルキナファソ工科大学のケレ氏建築事務所のデザイン/courtesy Francis Kere/Pritzker Architecture Prize
それでもケレ氏は、設計と建設の間に溝が広がり続けていると感じており、今日の建築家の多くは、自分のビジョンを実現するためのプロセスから疎遠になっていると考えている。
「大きな断絶がある」とケレ氏は説明する。「オフィスでコンピューターに向かいながら、世界を設計し、形作るだけの人がいる。これはベストな方法ではない。もし、あなたが大きな建築事務所を持っているのなら、人々に建設現場で経験を積ませる方法を見つけるのが良いだろう」
「奇跡は必要ない、それは可能なのだ。我々は気づくべきだ。建設現場で時間を費やし、材料がどのように組み合わされるかを実際に見た若い専門家たちは、コンピューター上でデザインするだけの人とは異なるやり方で設計することを」とケレ氏は主張する。
高まる注目度
ケレ氏の哲学が本能的に実用性を重んじているとしても、ケレ氏は象徴性や視覚的なアイデンティティーの力をはっきりと認識している。例えば、最近完成したケニア北東部の教育センター「スタートアップ・ライオンズ・キャンパス」は、特徴的なタワーが換気を助けると同時に、この地域のシロアリ塚を模倣して、建築物を周囲の環境に根付かせている。
ロンドン・ハイドパークにあるケレ氏設計の一時的なパビリオン。毎年、世界的な建築家を招き仮設のインスタレーションを制作/Niklas Halle'n/AFP via Getty Images
また、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーのために設計した樹木をモチーフにしたパビリオンは、毎年、世界的な建築家を招き仮設のインスタレーションを制作している。アフリカ以外でのケレ氏の作品は増えているが、このコンセプチュアルな作品には、自然な空気循環を生み出す穴のあいた木のブロックから、水不足という課題を暗示する雨を集める天蓋(てんがい)など、彼の作品を支えるさまざまなアイデアが盛り込まれている。
国際的な知名度が高まったことで、ケレ氏にはますます大規模な依頼が舞い込むようになった。14年にブルキナファソの議会議事堂が暴動により破壊された後、同氏は同国の首都ワガドゥグに新たに議事堂を構想するよう依頼された。ピラミッド型の階段状のファサード(正面)は、公共スペースと民主的な開放性のメッセージを提供するものだが、今年1月のクーデターの余波でプロジェクトは中断されたままだ。
だが隣国のベナンでは、ケレ氏が手掛ける別の国会議事堂の建設が進んでいる。サーペンタイン・パビリオンと同様、上部に厚みのある形は樹木――今回の場合は西アフリカのパラバーの木――とそれが果たしてきた伝統的な議論の場に着想を得たもので、メインとなる建物は真ん中が空洞となった「幹」から伸びている。
ベニンの国会議事堂の完成予想図。現在建設が進む/courtesy Francis Kere/Pritzker Architecture Prize
いずれの議事堂も、民主主義、記憶、アイデンティティーをアフリカ独自の形で表現することが課題だったとケレ氏は説明する。これらの国家的規模のプロジェクトは学校や保健所とは規模が異なるものの、ケレ氏のやり方は地域に根差している。
ケレ氏はこう語る。「どうすれば国家を代表するプロジェクトにできるのか。村から国家に至るまで、国中を見渡して問いかける必要がある。『地元の天然石はどこで入手できるだろうか。そして、どこか別の場所から建築様式を(借りてこないように)するためにも、それらの石を自分たちで調達しに行くのだ』と」
「このようにして私はガンドで始めたこの仕事を、国家の誇りを表す建築物に変えていこうとしている」とケレ氏は話す。
ケレ氏は、今年後半にロンドンで行われる授賞式で正式にプリツカー賞を受賞する。これまでの受賞者と同様、彼には10万ドル(約1187万円)の賞金と銅製のメダルが授与される。