日本の玄関口として発展した国際都市、横浜の魅力を紹介

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横浜中華街にはショップやカフェ、レストランがひしめいている/Artem Vorobiev/Moment RF/Getty Images
写真特集:歓楽街や歴史遺産が入り交じる横浜をめぐる

横浜中華街にはショップやカフェ、レストランがひしめいている/Artem Vorobiev/Moment RF/Getty Images

横浜(CNN) 横浜は間違いなく、日本で最も国際的な都市だ。

東京の南西48キロ以内に位置する横浜には、超高層ビル群や商業地区、歓楽街もあるが、それらは古代の木造寺院や日本に定住した外国商人の家屋など、華やかで、時に波乱に満ちたこの街の歴史の遺産と調和しながら存在している。

1853年に米海軍のマシュー・ペリー提督が、当時の将軍に鎖国を解くよう説得する任務を負って横浜のすぐ南に位置する浦賀に入港した時、横浜はまだ100軒ほどの住宅しかない小さな漁村にすぎなかった。

しかし1850年代末までに、日本の玄関口、そして商人、移民、投機家たちでにぎわう新興都市へと変貌(へんぼう)を遂げた。

今や横浜は日本で2番目に人口の多い都市だが、幸い中心部は比較的コンパクトで、大半の場所は徒歩で探索が可能だ。

中華街とコリアンタウン

日本と中国は距離的に近く、さらに1800年代に茶と絹の貿易が重要だったことを考えると、数千人の中国人が横浜に定住し、ウォーターフロントから数ブロック離れた関内地区に居留地を築いたことに何ら驚きはない。

中華街の東西南北の端には、神々、龍、虎などの複雑な装飾が施された四つの門(牌楼)がある。街は活気にあふれ、本格的な料理を提供するレストラン、輸入品を扱うスーパーマーケット、安価な土産物店など、600軒以上の店舗が並ぶ。

また中華街には色鮮やかな二つの寺院があり、今でも地元の人々は線香をたいたり、中国の神々に敬意を表したりするために訪れる。春節(旧正月)には祝賀行事も行われる。

また中華街から少し奥に進むとコリアンタウンがある。この地区では、看板はハングルで書かれ、飲食店ではビビンバやマッコリ(韓国のにごり酒)が提供されている。

コリアンタウンの西側を流れる大岡川沿いには数百本の桜の木が立ち並び、春先の桜の季節には、桜の花びらが風に舞い、街全体が桜色に染まる。

ブラフ

英国の貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建てられたベーリック・ホールは「ブラフ」に現存する最大の建物だ/EDU Vision/Alamy Stock Photo
英国の貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建てられたベーリック・ホールは「ブラフ」に現存する最大の建物だ/EDU Vision/Alamy Stock Photo

横浜に最初にやってきた欧州人や米国人は、将軍により、関門で仕切られた外国人居留地の中(関内)に住むよう義務付けられた。現在、その場所には横浜スタジアムがある。やがて外国人たちは、横浜で最も人気の高い場所に居を構えることが許された。

裕福な実業家や商人たちは、すぐに関内の真南に位置する高台に次々と家を建て始めた。この高台は「ブラフ」と呼ばれ、住民は、横浜の港を見渡せる眺望や、蒸し暑い夏でも涼しい海風が吹くなどの恩恵を享受した。過去150年間にこの高台からの景色は一変したが、かつて外国人たちが住んでいた住居の一部は現在も残っている。

1930年に英国の貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建てられたベーリック・ホールは、この地域に現存する最大の建物で、横浜市の歴史的建造物として登録されている。

他にも1927年に建てられた山手234番館や1863年に設立された現・横浜山手聖公会などがある。

外国人墓地

横浜は、20世紀の最初のはじめに急速な経済成長を遂げたが、1923年9月1日に東日本を襲った推定マグニチュード(M)7.9の関東大震災により、経済成長は急停止した。

関東大震災は広範囲に被害をもたらし、多くの命を奪った。そして犠牲者の多くは、ブラフの近くにある横浜外国人墓地に埋葬された。

ある墓石には、関東大震災が発生した日に亡くなった司祭の名前が刻まれている。また近くの別の墓標にはカトリック修道女の名前が記されている。

他にも米紙ニューヨーク・ポストの著名な戦争特派員ディキシー・タイ氏や、新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道の敷設に携わった英国人技術者エドモンド・モレル氏などが埋葬されている。

スタジオジブリ作品の舞台

2011年に公開されたスタジオジブリ制作のアニメ映画「コクリコ坂から」は、1960年代の横浜を舞台にしている。

物語は横浜の港を中心に展開し、主人公の女子高生、松崎海(まつざきうみ)は、ブラフのポールに「ご安航を祈る」を意味する2枚の国際信号旗を掲げる。この旗は現在、港の見える丘公園ではためいている。

天皇も通った競馬場

根岸森林公園にはかつて存在した日本レースクラブの巨大な旧一等馬見所(観覧席)がそびえる/Damon Coulter/Alamy Stock Photo
根岸森林公園にはかつて存在した日本レースクラブの巨大な旧一等馬見所(観覧席)がそびえる/Damon Coulter/Alamy Stock Photo

ブラフから数キロ南西に位置する根岸森林公園には、かつて存在した日本レースクラブの巨大な旧一等馬見所(観覧席)がそびえる。

この観覧席は、1930年代に隆盛を極めた日本初の洋式競馬場「根岸競馬場」の跡だ。

観覧席の後ろには、コースを見下ろすラウンジ、審判用のスタンド、投票所を備えた全盛期の観覧席の写真が展示されている。昭和天皇(1901~89年)は競馬のファンだったようで、この競馬場を何度か訪れたとされる。

日本が第2次世界大戦に敗戦した後、競馬場は占領軍に接収され、軍用地として使用された。その後根岸公園は横浜市に返還され、現在は桜の名所として知られる。

山下公園

1923年の関東大震災により、横浜では多くの建物やインフラが倒壊した。そのがれきは海岸沿いの海に廃棄され、やがてそこが山下公園となった。

公園の桟橋に係留されているのは、1929年に進水した豪華客船、氷川丸だ。米国西海岸への航路を運航し、チャーリー・チャップリンや秩父宮夫妻といった著名人や要人も乗船した。

「太平洋の女王」と称された氷川丸だが、第2次世界大戦中は病院船として運用され、さらに日本政府の降伏後は日本兵の復員輸送を行った。

現在は海に浮かぶ博物館となっており、復元されたアールデコ様式の客室や内装を鑑賞できる。

赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫は倉庫からブティック、バー、レストランなどがある文化・商業施設に生まれ変わった/Tatiana Petrova/iStock Editorial/Getty Images
赤レンガ倉庫は倉庫からブティック、バー、レストランなどがある文化・商業施設に生まれ変わった/Tatiana Petrova/iStock Editorial/Getty Images

山下公園の北端に位置する、かつて横浜港のための鉄道として使用されていた高架道路沿いに赤レンガ倉庫がある。

現代の船に積む貨物の倉庫としては小さすぎるため、ブティック、バー、レストランなどがある文化・商業施設に改装された。大きなオープンスペースはイベントや展示会の会場として利用されている。

みなとみらい

横浜の歴史的建造物と対照的なのが、鉄骨とガラスでできた光り輝くみなとみらいの超高層ビル群だ。このビル群は、過去30年間に埋め立て地に建てられ、旧港湾地区と横浜駅を結んでいる。

みなとみらいには、有名ブランド店、モール、レストラン、バー、ホテル、コンベンションセンターが立ち並び、そのすぐそばには国内最大級の大観覧車や遊園地「コスモワールド」、さらに新しい都市型ロープウェー「ヨコハマ・エアキャビン」もある。

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