冷戦最盛期、中国がU2偵察機5機を撃墜した時代<上> 「黒猫中隊」の誕生
黒猫と分遣隊H
U2と同様、台湾(中華民国の名でも知られる)はこの任務に最適であるように思われた。中国本土の東に位置する台湾は今と変わらず北京の共産党政権と対立しており、当時は米政府との間で相互防衛条約を結んでいた。
この条約はかなり前に失効したが、台湾は今に至るまで米中間の大きな対立点であり続けている。中国の習近平(シーチンピン)国家主席が台湾を中国共産党の支配下に収めると誓う一方、米政府は依然として台湾に自衛手段を提供する義務を負っている。
現在、米国はこの義務の一環で台湾にF16戦闘機を売却しているが、1960年代の台湾は米国製U2の提供を受けていた。
台湾軍が発足させた飛行中隊は、公式には「空軍気象偵察研究班」の名称で知られるようになる。
しかし、米国でU2の飛行訓練を受けたパイロットで構成される隊員たちは、中隊を別の名称で呼んでいた。「黒猫」だ。
作家のポーコック氏とゲーリー・パワーズ・ジュニア氏(ソ連で撃墜された操縦士の息子で、米首都ワシントンにある冷戦博物館の共同創設者でもある)は、2018年のドキュメンタリー映画で、黒猫中隊の背後にある考え方やその任務をこう説明している。
「黒猫計画が実施されたのは、米政府が中国本土上空から諜報(ちょうほう)を見つける必要に迫られていたためだ。中国の強みや弱み、軍事施設や潜水艦基地の位置、開発中の航空機の種類といった情報が必要だった」(パワーズ・ジュニア氏)
米空軍のロイド・リービット退役中将は、この任務を「米国と中華民国による共同諜報作戦」と形容する。
「米国のU2に中華民国のマークが描かれ、中華民国のパイロットは中華民国(空軍)大佐の指揮下に入った。上空飛行の任務は米政府によって計画され、中国本土上空で収集された情報は両国が受け取った」。リービット氏は米アラバマ州の空軍研究施設が公表した2010年の手記の中で、こう記している。
台湾のためにU2を操った最初のパイロットの一人が、華錫鈞氏だ。華氏は1961年初頭、台湾の桃園空軍基地に最初のU2が到着した現場にいた。
「表向きの説明は、中華民国(空軍)がU2を購入し、その機体に(台湾の)国籍マークが描かれたというものだった。桃園基地に駐留する他の空軍組織との混同を避けるため、この部隊は第35中隊となり、黒猫をエンブレムとした」。華氏は空軍関係の雑誌に掲載された2002年の黒猫中隊史にそう記している。
桃園基地では米国人らが台湾のパイロットと協力し、U2の整備や情報処理を支援していた。華氏によると、彼らは「分遣隊H」と呼ばれていた。
「表向きには米国の人員は全員、ロッキード航空の従業員ということになっていた」(華氏)
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