三峡ダムは、世界最大の水力発電プロジェクトだ。
1994年に建設が始まった三峡ダムの目的は、中国のあまりに急速な経済成長をさらに促進するための電力を生み出すだけでなく、中国最長の川である長江を制御し、数百万人を致命的な洪水から守り、さらに技術力の象徴として、国家の誇りを鮮烈に印象付ける場所にすることだった。
しかし、今のところ、これらの目的が達成されているとは言い難い。
まず、このプロジェクト全体の総費用は2000億元(約3兆円)に上り、建設に約20年の歳月を要し、さらに長江沿いに住む100万人以上の住民を別の場所に移転させる必要があった。また中国政府は、三峡ダムは「1世紀に1度の大洪水」からダム下流の地元社会を守れると約束したが、その効果はたびたび疑問視されている。
最近、それらの疑念が再浮上した。6月以降、長江上流の四川盆地で、過去約60年で最大の平均雨量を記録し、長江とその多くの支流が氾濫(はんらん)したのだ。その結果、100人以上が死亡または行方不明となり、367万人の住民が避難し、5480万人が被害を受け、経済損失は1440億元に上る。
2020年7月に発生した洪水の空撮写真/STR/AFP/AFP via Getty Images
これほどの大惨事を招いたにもかかわらず、中国当局は、三峡ダムは洪水の水を遮断する上で「重要な役割」を果たしていると主張している。
しかし、今夏、四川盆地の河川の流量を監視している複数の水位観測所で水位が記録的な高さに達する中、三峡ダムが洪水を制御する上で果たせる役割は限られることが明らかになったと指摘する地質学者もいる。
風呂おけいっぱいの水に茶わん
三峡ダムは、荘厳な建造物だ。
米航空宇宙局(NASA)によると、三峡ダムは宇宙から肉眼で見える地球上で数少ない人工構造物のひとつだという。2006年に完成したこのダムは、高さ181メートル、頂上部の長さが2335メートルという巨大なダムだ。
そして、2012年に完成したダムに付随する水力発電所は、米国最大級のダム、グランドクーリーダムの3倍以上に当たる2万2500メガワットの発電量を誇る。
しかし、中国政府が1992年に出した提案書によると、三峡ダム建設の最大の理由は発電ではなく、洪水の防止だった。
三峡ダムは長江上流に位置し、巨大な貯水池に雨水を貯め、水門でその水の放出を制御することにより、下流の洪水を防ぐ。全長660キロの貯水池は、上流の三峡の狭い谷間を蛇行し、中国西部に位置する人口3050万人の大都市、重慶へと続く。
乾季である10月から5月までは、隣接する水力発電所の発電量を最大化するため、貯水池の水位を最高水位の175メートルに保つが、6月の夏雨の到来前に、洪水の水が流れ込むスペースを確保するため、水位を145メートルまで徐々に下げる。
貯水池の水位を下げることにより、220億立方メートルの貯蔵スペースが生まれる。これはオリンピックで使用されるプール約900万個分に相当する。しかし、中国の地質学者で長年三峡ダムを批判しているファン・シャオ氏によると、極端に降水量の多い年に三峡ダムに流れ込む膨大な水量を考えると、そんなスペースなど無に等しいという。
ファン氏の計算によると、「1世紀に1度の大洪水」が発生すると、2カ月間に死海の水量の約2倍に相当する2440億立方メートル以上の水が三峡を通過する。三峡ダムの貯水池の貯水容量で対処できるのは、三峡を通過する総水量のわずか9%ほどにすぎない、とファン氏は付け加えた。
「これでは、大きな風呂おけいっぱいの水に小さな茶わんで対処するようなものだ。洪水の制御という点では、三峡ダムのコストに見合う成果が上がっていないのは間違いない」(ファン氏)
IHEデルフト水教育研究所の准教授で、貯水、水力発電が専門のミロスラフ・マレンス氏は、問題は三峡ダムの設計ではなく、三峡ダムが世界3位の水量を誇る長江の洪水問題をすべて解決できるとの期待だとし、「1つのダムでそれを実現するのは不可能」と指摘する。
またマレンス氏は、例えば、三峡ダムは上流から押し寄せる洪水の勢いを軽減することはできても、長江の中・下流や長江流域の支流に降る豪雨によって引き起こされる洪水を防ぐことはできない、と付け加えた。
しかも、それは問題の一部にすぎない。例えば、今夏、中国中南部で発生した洪水の多くは、下流で降った雨によって引き起こされ、その洪水の水は三峡ダムを通過すらしなかった。
中国の指導者たちの夢
長江の河岸では、出水期(洪水が起きやすい時期)に繰り返し大惨事が発生している。現代中国の建国の父である孫文以降の指導者たちは、この長江に巨大なダムを建設することを夢見た。
壁画に描かれた歴代の指導者、毛沢東、鄧小平、江沢民/Jacques Langevin/Sygma/Getty Images
孫文は、1919年に策定した中華民国の産業振興計画の中で、長江における船の航行を改善し、国全体に水力発電を提供するために、三峡にダムを建設する計画を立てた。
孫文はこの夢の実現を見届けることはできなかったが、後継者の蔣介石が1940年代にこの事業を継続した。蔣介石は、フーバーダムの設計者として知られる著名な米国人技師、ジョン・L・サベージ氏を招き、三峡の調査とダムの設計を依頼するとともに、数十人の中国人技師を訓練のため米国に派遣した。しかし、同プロジェクトは国共内戦中に放棄された。
中国共産党が政権を掌握した後、毛沢東はこのプロジェクトを支持したが、毛沢東の計画は大躍進政策と文化大革命の混乱によって頓挫した。
毛沢東の後継者である鄧小平が70年代後半に再びこの構想を提起したが、一部の主要な水文学者、知識人、環境保護主義者らが、住民の大規模な移転や地質災害の危険、環境被害、考古学的遺跡の喪失などの人的コストや環境コストを指摘し、ダムの建設に強く反対した。
その後の10年間は、中国共産党支配の歴史において最も政治的に落ち着いた、リベラルな時代であり、その間に三峡ダムの建設計画について激しい議論が展開された。しかし、1989年の天安門事件の後、公然と異議と唱えるのが難しくなり、政治的雰囲気も圧政的に変わった。
今ならこの計画を押し通せると確信した中国政府は、92年の全国人民代表大会(全人代)で三峡ダム建設案を採決した。ダム建設は承認されたが、代表団の約3分の1が反対・棄権した。通常、議案を形式的に承認するだけの全人代でこれだけ多くの代表者が反対・棄権するのは異例だった。
1992年3月の全国人民代表大会での李鵬首相(左)/Mike Fiala/AFP/Getty Images
当時、一部の代表者からは、三峡ダム建設プロジェクトについて事前の通告や議論もなく、突然全人代の議題に上がり、不意打ちを食らったという声も聞かれたという。
三峡ダムがここまで論議を呼ぶ理由
三峡ダムが論議を呼ぶ最大の理由のひとつは、長江の河岸に何世紀にもわたって住んでいた村人たちが払った多大な犠牲だ。ダムの巨大な貯水池を作るために、約140万人が住居を追われ、彼らの墳墓の地は破壊され、地元社会は分散し、農地は浸水した。また長江河岸の2都市、114の町、1680の村が水没した。
三峡ダム建設のために破壊される建物を眺める住民=2002年11月、/AFP/Getty Images
さらに三峡ダムは、深刻な地質学的影響も及ぼしている。中国国営新華社通信によると、2007年に開催されたある公開討論会で、中国当局と専門家らは、三峡ダムが、より頻繁な地滑りの発生など、数々の生態学的災害をもたらしたことを認めたという。
また三峡ダムは、2本の主要な断層線の近くに位置し、ダムの周辺で地震が急増している原因とされている。巨大な貯水池の重さと、貯水池の底の岩に水が浸透することにより、すでに地殻にかなりの応力がかかっている地域で地震を引き起こす恐れがあると科学者らは主張する。
もう1つの大きな懸念は、堆積(たいせき)物の遮断だ。長江の流れを遮ることにより、ダムに大量のシルト(沈泥)がたまり、それが貯水池に堆積することによりダムの洪水制御能力が低下するだけでなく、下流で大規模な浸食を引き起こす。
放水する三峡ダム=203年6月/AFP/Getty Images
そして最後に、2003年に初めて貯水池が満たされた数日後に、三峡ダムのコンクリート面に80の大きなクラック(亀裂)が発見された。新華社によると、当局者は当時、クラックはダムにとって脅威ではないが、補修しないと水漏れの原因になりうると述べたという。
ダムに対する考え方の変化
オランダのダムの専門家のマレンス氏によると、1950年代から80年代にかけてのダム建設ブームの後、より多くの国々や組織が、ダムが環境に与える影響を認識し始めたという。
しかし、中国はダムの建設を押し進め、2019年までに2万3841基の大型ダムを建設した。これは世界のダムの総数の41%に相当する。地質学者のファン氏によると、中国のダムの大半は2000年以降に建設されたという。
デルフト工科大学の水力工学教授マティス・コック氏は、水力発電施設を備えたダムは「安価なエネルギーを大量に生み出し、しかもそのエネルギーは再生可能だ」とした上で、「しかし、水力発電は環境破壊という代償を伴うため、新しいダムを建設する際は、環境被害を注視すべきだ。われわれは妥協点を見出す必要がある」と付け加えた。
=2020年7月、湖北省宜昌市
地質学者の中には、ダムで洪水を防ぐのではなく、川には干渉せず、出水期に川が拡張するなら、それを受け入れるべきとの意見もある。
「大きな沖積河川(沖積層を流れる河川)は雨季に自然に氾濫する。洪水は問題ではない。河川は洪水を引き起こすものだ。問題は洪水の影響を受ける地域に多くの人が住んでいる場合だ」とアラバマ大学のデービッド・シャンクマン名誉教授は言う。
気候危機が今後さらに大規模な洪水をより頻繁に引き起こすと予想される中、中国は将来の世代のために、洪水を防ぐための新たな解決策の模索を余儀なくされるだろうと一部の専門家は指摘する。