1864年に描かれた小ぶりの繊細な水彩画。古代ギリシャの詩人サッフォーが詩人エリンナの体を抱いていて、2人の唇は今にも触れ合わんばかりだ。サッフォーの思いは表情から明らかだが、一方のエリンナはというと、重たげなまぶたの下から鑑賞者を見つめ、衣服は肩から滑り落ちそうになっている。
作品の題名は「ミティリニの庭園のサッフォーとエリンナ」。展覧会に足を運ぶ観客に向けて女性同士の同性愛の欲求を描いた絵画としては、西洋で最初期のものである可能性が高い。作者のシメオン・ソロモンはビクトリア朝イングランドに生きた同性愛のユダヤ人芸術家で、その作品はほぼ忘れられている。
ソロモンは19世紀のラファエル前派運動に関わったものの、名声の絶頂にあった1873年と74年、複数の男性と同性愛関係を持った疑いで逮捕され、キャリアを絶たれた。これによってソロモンの人生は悲劇的な転換点を迎えることになる。
ビクトリア朝時代の英国の画家シメオン・ソロモンの肖像写真/Historic Images/Alamy
米コロンビア大学エイブリー建築美術図書館のキュレーター、ロベルト・C・フェラーリ博士は数少ない現代の専門家として25年間にわたりソロモン作品の研究に従事し、「シメオン・ソロモン研究アーカイブ」の設立により幅広い層に作品を紹介してきた。
作品自体は人口に膾炙(かいしゃ)するには至っていないが、ソロモンはゲイやクィアをテーマに据えた美術史ではカルト的な評価を得ている。フェラーリ氏が2000年にアーカイブに取り組み始めて以来、ソロモンの絵の注目度は増し、05年には巡回回顧展が開催された。17年に行われた英テート美術館の展覧会「英国のクィア芸術:1861~1967年」では、ソロモンを同性愛のテーマを描いた重要な芸術家と位置付けた。
フェラーリ氏はニュージャージー州の自宅からビデオで取材に応じ、「一般的にいって、社会がクィア文化に開かれてきたことで、ソロモンが再発見される機会が生まれた」と指摘。「当時のユダヤ人芸術家の地位を向上させたソロモンの比類ない重要性を認識することが重要だと思う。ビクトリア朝中期のロンドンでは依然、反ユダヤ主義が根強かった」と語った。
やはり同性愛者であるフェラーリ氏自身にとっても、大学院生の時にソロモンの作品を発見したのは目が開かれる思いだったという。
挑発的な絵画
ソロモンは1840年、ロンドンの中流階級の家庭に8人きょうだいの1人として生まれた。名門の英王立芸術院で学んでいた10代のころ、ラファエル前派に紹介される。ラファエル前派は英国人芸術家からなる秘密結社で、当時の芸術思潮に反旗を翻す目的で48年に結成された。王立芸術院ではルネッサンスの巨匠ラファエルによる理想化された風景が推奨されていたが、ラファエル前派はこれを捨て、代わりに自然主義的な細部描写への回帰を訴えた。いわゆる「ジャンル絵画」(日常生活の1コマを題材にした当時人気の絵画)にも嫌悪感を示し、歴史、神話、宗教上の物語を描いた絵を好んだ。
ギリシャ神話の酒の神バッカスを描いた作品/Painters/Alamy
ソロモンはギリシャ・ローマ神話に着想を求める前、初期作品ではモーセの母ヨケベテや預言者エレミアといった旧約聖書の主題を中心に据えていた。ユダヤ人の画家がユダヤ教の主題を描く形となり、フェラーリ氏によると、扱う範囲が狭すぎるとの批判もあったという。ソロモンは古典主義の復活を受け入れ、後に「芸術のための芸術」運動にも加わったものの、生涯折に触れて旧約聖書の登場人物を描き続けた。
ソロモンがサッフォーに魅了されるようになったきっかけは、詩人スウィンバーンとの出会いだ。サッフォーはギリシャ・レスボス島出身の謎めいた叙情詩人で、今日残るわずかな詩や断片には、特に若い女性への憧れや報われぬ愛が描かれている。(「レズビアン」という言葉は、サッフォーの生まれ故郷のレスボス島や、他の女性への欲求に由来する)
「ミティリニの庭園のサッフォーとエリンナ」はソロモンが初めて古典主義的な主題を描いた作品で、キャリアの転換点を画す。挑発的な画面には欲望の緊張感がみなぎり、抱擁を交わす2人の女性の頭上では、コキジバトのつがいも同様のしぐさを見せている。
フェラーリ氏は縦33センチ、横38センチと小ぶりなこの水彩画について「とても官能的だが、過度に性的ではない」と説明。「サッフォーはエリンナにもたれかかっていて、エリンナは抱擁を受け止める姿勢を取っている。情熱の感覚が見て取れるが、私にはエリンナがその情熱を受け入れるのを躊躇(ちゅうちょ)しているようにも見える。世界からどう見られるかを恐れる気持ちがある」と指摘した。
絶たれたキャリア
ソロモンの作品は同性愛の色合いが濃く、宗教や古典古代の場面の底流には性的に親密なトーンが流れる。「ダニエル書」に着想を得た1863年の「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」や、ギリシャ神話の若い愛の神、エロスのしなやかな裸体を描いた66年の「秋の愛」などが代表的だ。
1866年作「秋の愛」/DEA Picture Library/De Agostini/Getty Images
こうした同性愛的な含みが作品の定期展示や売却の妨げになることはなかったものの、32歳の時、ロンドンの公衆トイレで年長の馬丁(ばてい)と同性愛行為を試みたとして逮捕されると、ソロモンのキャリアは危機を迎える。
ソロモンは6週間の勾留の後、保釈された。この時点では「何とか再起を遂げることもできただろう」とフェラーリ氏は語るが、ソロモンは翌年、今度はパリで男娼と一緒にいるところを見つかり再び逮捕された。刑務所で3カ月を過ごし、以後は芸術家仲間から見捨てられた。
人生の後半、ソロモンの抱える問題はいっそう複雑さを増し、依存症に加え、路上生活もたびたび経験した。しかし、19世紀が終わりを迎えると、新たな世代が彼の作品を発見することになる。ソロモンを同志とみなした若き日のオスカー・ワイルドや、最終的にソロモンの援助者となって衣食や創作の場を提供したエリック・スタニスラウス・ステンボック伯爵らだ。
ソロモンの作品は海を越えて米国でも知られるようになった。死の10年前の1896年には、フィラデルフィアやニューヨークで大規模展覧会が開かれている。
ソロモンはキャリアを通じて両性具有を描き続け、男性的な特徴を持つサッフォーをはじめ、後年には性別の曖昧(あいまい)な頭部のスケッチにも取り組んだ。
「夜」と題された作品/Art Collection 2/Alamy
「彼はクロスジェンダー、つまりジェンダーレスの感覚を備えており、作品には男女両方の外見を持つ人物が登場する」(フェラーリ氏)
この点で、ソロモンはいち早く同性愛関係を擁護したのみならず、ジェンダー表現のあらゆる領域を網羅したと言える。「思うに彼の心の中には、ジェンダーや愛という理念が人間の作り上げた制約を超えていくものだという志向がある。そうした制約を生む性別の二元的な解釈は、システムとして現在の我々の社会に存在している」(フェラーリ氏)。1世紀あまりが経過した今なお、ソロモンの描いた愛情と揺れ動く自己をめぐる表現は、見る者の共感を呼んでいる。