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廃炉に向かうドイツ原発 写真家が内部を撮影

Bernhard Ludewig

2011年に発生した東日本大震災と津波の影響で、東京電力福島第一原子力発電所では複数回のメルトダウン(炉心溶融)が発生し、世界の原子力業界に衝撃が走った。当時、日本から8000キロ以上離れたドイツでは、原子力の使用をめぐり長い間論争が続いていたが、その中で発生した福島第一原発の事故は、原子力時代の終焉(しゅうえん)を予感させた。

メルケル首相は直ちに、同国で最も古い7基の原子力発電所を停止すると発表し、さらにその後、残りの原発も2022年までに恒久的に閉鎖して再生可能エネルギーに注力すると明らかにした。

写真家ベルンハルト・ルーデヴィヒ氏が初めて原発を訪れたのは、福島第一原発事故の翌年の2012年だった。その後、ルーデヴィヒ氏は立ち入りが困難な世界をかいま見るだけでなく、ドイツの歴史における最終章を記録に残すことになる。

エムスラント原子力発電所の原子炉の制御棒/Bernhard Ludewig
エムスラント原子力発電所の原子炉の制御棒/Bernhard Ludewig

ルーデヴィヒ氏は、原発だけではなく、研究センター、訓練施設、放射性廃棄物の貯蔵庫など、ドイツの原子力セクターの全体像を記録することを決意した。

その結果、完成した写真は、時に非常に魅力的だ。ルーデヴィヒ氏は、パターンやシンメトリー(左右対称)に焦点を当てることにより、複雑な遠心分離機やレトロスタイルの制御室、さらにルーデヴィヒ氏が大聖堂のような宗教的雰囲気が漂うと表現する、空にそびえる冷却塔などに隠された美しさを浮き彫りにしている。

原子力に対しては中立を維持

ルーデヴィヒ氏は、約300枚の写真を新著「The Nuclear Dream」にまとめた。400ページ以上に及ぶこの本は、ルーデヴィヒ氏がこれまで取り組んできた原子力についての徹底的な調査の結晶だ。

しかし、ルーデヴィヒ氏は、自分は原子力に賛成でも反対でもなく、かつて将来を約束されていた技術に興味をそそられた「中立」と主張する。ルーデヴィヒ氏の活動の目的は、ドイツのエネルギー政策を促したり批評したりすることではなく、消滅しつつあるこの原子力の世界を後世のために写真に収めることだという。

福島第一原発の事故は、ドイツ国内で原子力反対の声が広がるきっかけとなったが、ドイツは20年前に原発の段階的な廃止を公約している。また、認知されていた原子力の危険性や欠陥をめぐる議論はさらに前からなされていた。

1970年代には、旧西ドイツの原子力施設の外で左翼による抗議行動が日常的に行われ、警察との激しい衝突に発展することも多かった。ドイツ北部ゴアレーベンの岩塩坑を核廃棄物の処分場とする案が出されて以来、ゴアレーベンの町は原発反対デモの「火種」になっている(ルーデヴィヒ氏の著書には、ドイツの核廃棄物問題に対する恒久的な答えを模索する取り組みの一環として、ゴアレーベンの地下に試験的に掘られた岩塩坑の複数の写真が掲載されている)。

しかし、ルーデヴィヒ氏にとって本当の「転機」はチェルノブイリだった。1986年に発生したチェルノブイリ原発事故で、欧州全土に放射性降下物が拡散し、その結果、がん罹患率は急上昇し、ウクライナでは現在も約2600平方キロもの土地がほぼ人が住めない状態にある。この事故で、ドイツ国内の議論は一変した。グライフスヴァルト原発など、ドイツ東部にある旧ソ連が設計した原子力施設は、東西ドイツの再統一後に廃止された。そして、1990年代以降、ドイツでは新たな原子力施設は建設されていない。

そこでルーデヴィヒ氏は、原子力業界のより完全な姿を描くために、フィンランドやブラジルの原子力施設だけでなく、チェルノブイリ立ち入り禁止区域にも足を運んだ。廃棄の運命にある原発内の長い間放棄された制御室の不気味な写真など、ルーデヴィヒ氏がチェルノブイリから持ち帰った写真は、同氏のプロジェクトに客観性やバランスを与えるのに役立っているという。

「原子力に関する数百枚の写真を公開する際、(原発の)隠れた美しさの写真ばかり見せて、大事故の悲惨さを写した写真が1枚もなかったら、それは原発の真の姿とは言えない」(ルーデヴィヒ氏)

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