世界的に著名なファッションデザイナーの山本寛斎さんが死去したことがわかった。76歳だった。アバンギャルドなコレクションで知られたほか、歌手のデビッド・ボウイさんにステージ衣装を提供するなどしてキャリアを築いた。
娘の未來さんは27日、インスタグラムで、山本さんが21日に死去したと報告。「家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました」と伝えた。
未來さんは続けて「私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした」とも述べた。
山本さんが代表を務め、同じ名前を冠する山本寛斎事務所は声明で、急性骨髄性白血病のため亡くなったと報告。葬儀はすでに行われたが、後日、「お別れの会」が開かれる可能性もあるという。
山本寛斎さん(右)とモデルの山口小夜子(さよこ)さん(左)=1982年11月、東京/Kyodo News via Getty Images
スーパーモデルのイマンがニューヨークのランウェーを山本さんの衣装を着て歩く=1981年/Rose Hartman/WireImage
闘病中の山本さんについては、「前向きに治療に励む傍ら、クリエーションに対する熱い思いをスタッフに語っておりました」とも明かした。
山本さんは1944年生まれ。土木工学を学んだ後、ファッションに目を向ける。1970年代前半までに英ロンドンでファッションショーを行った最初の日本人デザイナーとなり、演劇的な創作で世界的な評価を得た。
山本さんは当時、エルトン・ジョンさんやスティービー・ワンダーさんら著名ミュージシャンとも交流を深めた。ロンドンで名を高めたことで、ボウイさんから注目され、長年にわたる創作の協力関係を築いた。
山本さんが2016年に米誌ハリウッド・リポーターに語ったところによれば、ボウイさんが最初に山本さんの作品に興味を持ったのはロンドンで売られていた婦人もののデザインをいくつか目にしたときだった。
「幸運にもデビッドはとてもスリムな体形で、服がぴったりフィットした。何も調整がいらなかった」と山本さんは当時を振り返った。
ボウイとのコラボレーション
山本さんはその後、ボウイさんの中性的なジャンプスーツやボディースーツ、クローク、ワイドボトムのパンツなど、さまざまなステージ衣装を手掛けるようになった。1973年の「アラジン・セイン」ツアー用の衣装もデザイン。同名のアルバムを引っさげたこのツアーでは、ボウイさんがジギー・スターダストを含むステージ上の様々な人格に変ぼうするのを衣装が助けた。
前述の雑誌インタビューで、山本さんは「ある種の化学反応が起きた。私の服がデビッド、彼の歌、彼の音楽の一部になった。彼が世界に届けたメッセージの一部になった」と語った。
山本さんがデザインした衣装を着てジギー・スターダストを演じるデビッド・ボウイさん=1973年、ロンドンのハマースミス・オデオン /Debi Doss/Hulton Archive/Getty Images
山本さんがデビッド・ボウイさんのために作った衣装。東京の寺田倉庫で行われた「デヴィッド・ボウイ大回顧展」で展示された=2017年1月5日/The Asahi Shimbun via Getty Images
ドラマチックなデザインで知られる一方で、伝統的な日本の衣服や職人技への探究心も強かった。全盛期の70年代から80年代を経て、着物に新しく現代的な解釈を持ち込もうとしたほか、キャリアを通じて日本の「婆娑羅(ばさら)」のコンセプトを重視。ミニマリズムから示されるものとは対極の信じがたいほど奔放で大胆なデザインを提示した。ルイ・ヴィトンの2018年リゾートコレクションでは、山本さんへのオマージュを込めて、ラメやスパンコールをあしらった歌舞伎をモチーフにしたデザインが発表された。
山本さんは世界各地で注目度の高いイベントを開催してきた。モスクワの赤の広場やロンドンのビクトリア・アンド・アルバート博物館などで、ライブファッションショーを敢行した。山本さんの事務所によれば、死の間際まで携わっていたオンラインイベント「日本元気プロジェクト2020 スーパーエネルギー!!」は予定通り7月31日に開催される。
同事務所は「ともに当日を迎えることが出来なかったことはスタッフ一同、大変心残りではございますが、山本寛斎の思いがこもった作品を皆様にお届けしたい」と述べた。