(CNN) パレスチナ自治区ガザ地区での戦争が始まってから10カ月、現地で必死に生き延びている人々にとって必要のないものなどほとんど何もない。水、食料、避難所、身の安全。全てが求められているが、ガザの住民は文字通り外部から封鎖され、生きるのに不可欠なものを受け取れていないのが実情だ。
アリ・H・エライディ氏/Courtesy Ali Elaydi
私のような技量を備えた医師もまた、切実に必要とされている。私は整形外科医だ。今年初めに米イエール大学医学部での研修を終え、現在はテキサス州の小さな診療所で勤務している。
多くの米国人同様、私はイスラエルによる爆撃で手足を失った人々や、粗雑な切断手術を受けなくてはならなかった人々のニュース画像を目にしては、内臓をえぐられるような思いを味わっている。腕や脚が落ちてきた石の直撃を受けて使い物にならなくなれば、そうした手術が必要になる。外科医として、助けなくてはならない思いに駆られていた。
ガザに渡航できたのは4月のことだ。イスラエル軍の爆撃で傷ついた人々を助けるのが目的だった。これらの爆撃による死傷者は数千人に上り、建物内に閉じ込められた状態での被害の他、爆弾の破片の直撃、もしくは難民キャンプへのミサイル攻撃の際に傷を負っていた。ところが最近、イスラエルが新たなルールを課したのを受け、私にはもう自らの医療知識を使ってガザでの支援に当たることが不可能になった。
私が参加した医療使節は、FAJRサイエンティフィックという支援団体から資金援助を受けている。活動したのはガザ南部ハンユニスにあるヨーロッパ病院だったが、その後同病院は退避命令の対象施設となっている。6月に同じ支援団体を通じて再訪し、ガザ中部の病院に配属される予定だった。
ヨルダンまで移動した後、イスラエル当局により再入境が拒否されたのを知った。私がパレスチナ人であることが理由だという。
今年5月、ガザ南部ハンユニスにあるヨーロッパ病院で診察を待つパレスチナ人たち。同病院はこの後、イスラエル軍による退避命令の対象施設となった/AFP/Getty Images
私はガザの難民キャンプで生まれた。第1次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)の発生から4年後のことだ。当時、イスラエル軍がガザに侵攻していた。戦争のような状況下で、暴力は日常茶飯事だった。私たちは米国への政治亡命を申請し、運良く受理された。5歳の時にガザを出た。私たちの他、ごく少数の幸運な人々だけがそのようなルートで脱出できた。私たちは難民としてガザから逃れたが、親族の大半は今もガザで暮らしている。
長い紆余(うよ)曲折を経て、やっとのことで米国籍を取得した時には18歳になっていた。ガザに残してきた愛する人々を思っては、しばしば罪悪感にさいなまれた。私が米国で得た恩恵をその人たちが享受することはないからだ。キャリアを追求する上で念頭に置いたのは、最も影響力の大きい形で故郷へ還元できる仕事に就くことだった。医療を選んだのは自然な流れだ。元来関心を寄せていた分野で、適性もあったからだ。
全ての応募書類や身上書、毎回の面接でキャリアの目標に掲げたのが、ガザで苦しんでいる人々に向けた医療援助の提供だった。それによって、自分のように戦争がもたらす破壊から抜け出すことの出来なかった人々を助けようとした。
4月、整形外科医としてのイエール大学での研修が終わりに近づく中、ガザでは戦闘が猛威を振るっていた。ほとんど運命づけられていたかのように、長かった研修の修了は、ガザでの暴力が最悪の水準に達する時期と重なった。今こそ約束を果たし、ガザに帰還する時だと理解した。外科的な技量の提供を通じ、激しく消耗した医療システムを支えるために手を尽くそうと思った。
あの2週間の医療使節は、人生を一変させる経験になった。幸運にも我々が助けることの出来た人々と同様、ボランティアで参加した医師たちにとってもそうだった。医師たちは整形外科医10人と麻酔専門医4人の計14人。滞在中は大いに貢献したものの、米国へ戻る際にはまだ多くのことをやり残しているというのが共通の認識だった。私は6月に行われる1カ月間の再派遣への参加を申し込んだ。
参加に必要な国連と世界保健機関(WHO)からの承認は既に得ていた。ヨルダンに到着してから数日後に、私と医療チームの他のメンバーはガザへ移動することになっていた。出発のわずか2~3日前、使節派遣の主催者がテキストメッセージを受け取った。イスラエル当局が使節のガザ入境を承認したという内容だったが、私だけはそこから除外されていた。転送されたメッセージによると、私は「パレスチナ人の出自を理由に、正式に入境を拒否」されていた。幼少期やガザからの脱出時の記憶、初回の医療使節での思い出が脳裏に押し寄せると同時に、強い無力感を覚えた。悲劇が起きた。まさしく私個人にとっての「ナクバ(1948年のイスラエル建国に伴ってパレスチナ人が故郷を追われた大破局)」だ。携帯の画面に表示された言葉の意味もほとんど理解できなかった。それほどまでに強い不信感を抱いていた。
現地の悲惨な状況と医療関連の資源不足こそ私が医師の道に進んだ理由であり、整形外科医を志した理由に他ならなかった。4月の医療使節に参加中常々考えていたことだが、たった一つの決断を下していなければ私は今もガザに残り、現地の人々と共に苦難を味わっていたのだ。子どもの時にガザから脱出することが出来たが、それによって私の命の価値が残った人々の命の価値を上回るわけでは全くない。窮状にある人々を助けたいと口にするだけの人間にはなりたくなかった。研修も終えた。この仕事は天職だった。だからこそ医師の道に進んだ。
しかしながらイスラエルの政策により、私は得たものを還元することが不可能になった。
この政策決定は、既に悲惨なガザの状況を一段と悪化させた。現地の医療危機は単なる抽象的な統計ではなく、100万単位の人間に襲いかかる日々の現実だ。病院は逼迫(ひっぱく)し、医療用品も不足、訓練を積んだ医療要員を見つけるのはさらに難しい。専門を問わず医師や看護師、医療従事者がいることで状況は明らかに変わる。この事実は既に証言済みだ。
以上の理由から、特定の出自を持つ医師による使節への参加を拒むのは、単なる官僚的特権で片付けられる話ではない。それはガザに住む人々の健康と福祉を直接否定する行為だ。
イスラエルの政策は、誰であれ両親もしくは祖父母がパレスチナ人なら人道使節への参加を認めず排除するというもの。これに従い、今後の使節への参加を申し込んでいた私の友人の多くはそのメンバーから外された。友人たちがこれまでガザに足を踏み入れたかどうかは関係がない。
私はこれがイスラエル政府による多くの戦術の一つなのではないかと疑っている。狙いはガザに向かう支援の流れを制限することだ。最初の使節に参加した際、私はスーツケース10個分の医薬品を携行することが出来た。私が参加を許されなかった使節で認められた荷物は、バッグ1個のみ。医薬品は個人で使用する分を除いて持ち込み不可だった。
国際社会は断固たる姿勢でこのようなやり方を非難し、人道支援の不可侵性を主張しなくてはならない。パレスチナ人の医師がボランティア活動を行う権利を否定し、人道的な取り組みの実施を妨げようとするのはただの侮辱に他ならない。世界中の政府と国際機関、そして影響力のある個人は、この非人道的な政策の転換に向けて尽力するべきだ。
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アリ・H・エライディ氏は米テキサス州の診療所で勤務する整形外科医。記事の内容は同氏個人の見解です。