Architecture

中国・深セン、今なお高まる初代「モデル都市」の重要性

中国の都市発展のシンボルとなった深セン。その影響力は現在の開発計画にも及んでいる

中国の都市発展のシンボルとなった深セン。その影響力は現在の開発計画にも及んでいる/Prisma by Dukas/Universal Images/Getty Images

中国政府の予測によると、国内の都市人口は2035年までに、人口の7割超に当たる約10億人に達する見通しだ。

上海と北京はいずれも人口の上限を発表し、新規流入者の数を減らす施策も実施。こうした制限は今後、より人口の多い都市でも軒並み導入されるとみられる。

ただ、都市化のペースが鈍る気配はない。移住者の一部は既存の中小都市で吸収できるが、中国はその一方で、住宅や雇用、インフラを提供するために全く新しい都市圏の開発を急いでいる。しかもその間、絶え間なく経済成長を進める必要がある。

こうした新都市の中で最も有名なのが「雄安新区」だ。首都・北京の南西100キロに位置する河北省で3県にまたがり建設が進められている。同区は2017年4月に鳴り物入りで発表され、人口250万人に達する見通し。大規模建設が始まったのは19年で、政府の野心的な計画では、今後10年をかけて北京の企業や大学、病院の多くを移転させる構想を描く。首都にかかる負担を和らげつつ、伝統的な産業地域であるこの場所でハイテク経済の成長を促す狙いだ。

中国政府は全土で多額の資金を投じて新地区や開発区の設立を進めており、その多くは衛星都市の役割を果たす。四川省の省都・成都市の南では10年前から天府新区の開発が進み、近くハイテクハブの「ユニコーン島」をオープンする予定。湖南省の省都・長沙市でも、湘江新区にハイテク産業を誘致する計画で、国内初となる自律的な公共交通機関の試験区域も導入した。

建築家のザハ・ハディド氏がデザインした成都近郊のハイテクハブ「ユニコーン島」/Zaha Hadid Architects/Negativ.com
建築家のザハ・ハディド氏がデザインした成都近郊のハイテクハブ「ユニコーン島」/Zaha Hadid Architects/Negativ.com

これらのプロジェクトはいずれも、都市変容の元祖である中国の「モデル都市」、深センを着想源としている。今や1300万人超が暮らす深センは、中国政府にとって過去40年の経済改革の最も誇るべき象徴となっている。

深センでの建設

1984年9月4日、深センの通りに「国際貿易センター」の完成を祝う爆竹の音が響き渡った。深センで最も高いこのビルは当時、中国国内を見渡しても最高層だった。

当時の最高指導者トウ小平氏は同年、建設現場を訪れ、プロジェクトにお墨付きを与えていた。トウ氏にとりわけ強い印象を与えたのは、建設のスピードだ。適切な機材の不足もありスタートこそ鈍かったものの、最終的には3日間で1階が完成するペースに。上層階の建設ペースは「深センスピード」として知られるようになった。

深センの「国際貿易センター」は、かつて中国国内で最も高いビルだった/Imaginechina Limited/Alamy
深センの「国際貿易センター」は、かつて中国国内で最も高いビルだった/Imaginechina Limited/Alamy

80年代に深センを訪れた人にとって、この50階建ての高層ビルは都市景観の中で圧倒的な存在感を放っていた。だが、やがて隣接するビルが国際貿易センターに追いつき、これを追い越すようになった。

経済特区

トウ氏の70年代後半の施策をきっかけに、中国が経済システムの改革開放に乗り出すと、深センは初代「経済特区(SEZ)」の4都市のひとつとして設立された。4都市はいずれも好立地と世界市場へのアクセスの良さを理由に選ばれ、中でも深センは国際ハブ都市の香港からわずかに川を1本隔てた場所にあった。

繰り返し言及される神話によると、深センは漁村から成長を遂げたとされる。しかし、同市は80年には既に市場町としてにぎわっていた。後にSEZとなる330平方キロ近い隣接地域には、あらかじめ漁村や町が多数存在していた。

1980年代以降、急速な都市化を経て深センの景観は一変した/Xinhua/Alamy
1980年代以降、急速な都市化を経て深センの景観は一変した/Xinhua/Alamy

今でこそ深センは成功例とみられているが、同市の設立や初期開発に異論がなかったわけではない。トウ氏も認めたように、深センはひとつの実験であり、中国の他地域に適用されるルールから逸脱していた。そのため、物価統制の緩和や外国直接投資の誘致など、比較的革新的な発想を試すことが許されていたのである。

トウ氏は84年に深センを訪問した際、SEZは中国の潜在力を国内外にアピールする「技術と管理、知識、外交政策の窓口」になると強調。同市を「中国の近代化と都市化にとっての国家的なモデル」にする構想を示した。

中国にとってのモデル

中国の政治家は国内各地に都市圏を開発する際、一貫して「深セン効果」の再現を試みてきた。

こうした新地域は深センを思わせる建築モチーフを擁することが多く、直角に交わる大通りに沿って展示会場やモール、高層ビルが立ち並ぶ。通常は深センと同様、経済の再活性化を念頭に建設されていて、地元自治体はしばしば不動産開発業者や移転してくる企業に好条件を提示する。

上海の浦東新区を例に取ろう。名高い外灘から川を隔てた同地区は、深センをヒントに建設された。90年代初め、上海で冬を過ごすことが多かったトウ氏は次世代の指導者に対し、対岸に比べ開発が遅れていた浦東の再開発を許可するよう要請。初代経済特区に上海を含めなかった79年の判断は誤りだったと述べた。

深センの蓮花山公園に立つトウ小平氏の銅像/Eric0911/Shutterstock
深センの蓮花山公園に立つトウ小平氏の銅像/Eric0911/Shutterstock

その後、浦東新区は中国有数の高層ビルがそびえる国内金融セクターの中心地となった。確かに同地区の計画と開発は深センに比べ中央集権的に進められ、高度な調整を経てきたが、国際建築事務所の提案した斬新な計画にもかかわらず、浦東は都市計画上、深センと同じ発想をなぞる結果になった。短時間で野心的に建設を進め、土地の価値を最大化し、人間よりもビジネスを優先するという発想だ。

中国は浦東以外には深センの成功例を再現できていない。同時期に設立された他の三つの経済特区でさえ、深センの爆発的な発展とは比べるべくもない。

習氏のモデル都市、雄安新区

北京の新衛星都市、雄安新区において、中国は今度こそ深センの成功を再現しようとしている。習近平(シーチンピン)国家主席は、元深セン市長の許勤党委書記を河北省の省長に任命。国営メディアは雄安を「北の深セン」と形容する一方、基本計画によると、プロジェクトが目指すのは「人類の発展の歴史においてモデルとなる都市」だという。

ただ、雄安と深センの開発には違いもある。最も目立つのは、初代経済特区がいずれも沿岸部に位置し、外国資本の誘致を目的に開発されたのに対し、雄安は最寄りの海岸線から150キロ離れている点だ。

雄安には国際産業ではなく主に国内産業が集積する見通しで、特に、現在北京を拠点とする巨大国有企業の多くが集まることになりそうだ。

深センの超高層ビル「平安国際金融中心」の最上部で溶接を行う作業員=2015年/Mao Siqian/Xinhua/Getty Images
深センの超高層ビル「平安国際金融中心」の最上部で溶接を行う作業員=2015年/Mao Siqian/Xinhua/Getty Images

政府はまた、雄安は環境に優しい「スマートシティー」になると強調。中国の広大なメガシティーに比べて人間的なスケールで建設し、人口密度も低く押さえると表明した。比較的低層の建物が並び、大半の都市開発に特徴的な高層ビルは一掃される。

もっとも、雄安の開発が野心に欠けているわけではない。このプロジェクトには現在の指導層の野心と懸念が反映されており、習主席はプロジェクトに自身の名前を結びつけることで、深センにおけるトウ氏の遺産をなぞりたい考えとみられる。2018年の計画書では、「習近平総書記は(雄安に関する)計画と決定、宣伝を自ら手掛け、並々ならぬ尽力をしてきた」としている。

雄安がどの程度、モデル都市である深センのひな形を踏襲するのか、あるいはそこから逸脱するのかはまだ分からない。だが、開発から40年が過ぎた今なお、深センの例が良くも悪くも中国の都市開発に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。

注目ニュース

このサイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、Cookieなどを使用してアクセスデータを取得・利用しています。 これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについては詳細をご覧ください。
[ 閉じる ]