ネオンまたたく夜の東京を走り抜ける暴走族。バイクにブレーキを掛けると、すぐ横には「新型爆弾」で生まれた巨大で黒いクレーターが。クレーターはあまりに大きいため見開きで描かれ、ページ全体を埋め尽くさんばかりに広がっている。
これが、1982年に大友克洋氏によって生み出されたSFマンガ「AKIRA」の冒頭だ。この作品はすぐに米国の中核となる少数のファンに広まった。
「AKIRA」(1988年)/Courtesy IMDb
米タフツ大学で日本を研究しているスーザン・ネイピア教授は、「米国人はそれ以前にこのようなものを見たことがなかった」「AKIRAは途方もないストーリー展開で既存の文明が崩壊しつつある世界を描いた。心の奥底に訴えかける内容を、それにふさわしいビジュアルで表現していた」と語った。
大友氏は1988年、AKIRAのアニメ版を公開した。この映画作品は非常に詳細かつ緻密(ちみつ)に作り込まれており、アニメーターらは数年をかけ、手作業でセル画への色付けを行った。こうしたセル画の1枚1枚が物語に命を吹き込んだ。同作は現在、カルト的人気を誇る傑作として広く知られている。この作品をきっかけに、アニメの持つ影響力が欧米にまで拡大することになった。
アニメに詳しい明治大学の森川嘉一郎氏によれば、1980年代から90年代初めにかけて欧米が抱いていた日本のイメージは大きく2つに分かれていた。忍者やチャンバラを扱った映画に見られる東洋化した封建時代の日本と、エコノミックアニマルが電車にすし詰めになり「ウォークマン」や「トヨタ」を世界中に売りさばく超近代的な日本だ。
「ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ」(1995年)/Courtesy IMDb
森川氏は、日本のマンガやアニメ、ゲームが人気を得たことで、日本や日本人に対するより人間的で親しみやすいイメージが世界中に広まったとの見方を示す。
アニメ産業の市場規模は海外からの需要を大きな追い風として、2017年に過去最高となる2兆1500億円を記録した。アニメの輸出は、ネットフリックスやアマゾンといった動画配信サービスのお陰もあり、2014年以降3倍に拡大している
日本のアニメの創始者のひとりとされるのが下川凹天氏で1900年代初めに短編アニメ制作のための実験を始めた。しかし、当時はアニメの制作費は高く、日本の作品はディズニー作品に後れをとっていた。
第2次世界大戦中、軍部がアニメの制作者にプロパガンダ用の映画を作るよう指示したことで業界は拡大。戦後は、マンガやアニメ業界はさらなる発展をみせることになる。
ディズニーのアニメ映画を見て育った手塚治虫氏は1952年、「鉄腕アトム」を発表。鉄腕アトムは人気を博し、1963年にはアニメ化された。
Tezuka Productions
手塚氏の名声が高まるとともに、日本のアニメ産業も拡大を続ける。
東映アニメーションは1950年代、「東洋のディズニー」を目指すことを標ぼうし、アニメ作品の米国への輸出を開始した。
明治大学の森川氏によれば、初期の輸出への情熱はディズニーのアニメ作品の世界的な成功に基づくものであり、アジアの俳優を起用した実写映画よりも欧米で成功する見込みが高いとの仮定によるものだった。
しかし、鉄腕アトムは日本ではブームとなったものの、アニメというジャンルが米国を席巻するにはさらに数十年の歳月を必要とした。
日本の「オタク」文化に関する著書のある伊藤瑞子氏によれば、1980年代初め、日本で軍務に就いたり事業を行ったりする家族を持つ欧米の子どもたちの多くが、母国の友人らにアニメのビデオテープを「密輸」していたという。
「カウボーイビバップ(Cowboy Bebop)」といった斬新なタイトルは、急成長するコンピューターやインターネットの業界に携わる、テクノロジーに詳しい外国人の興味をかき立てた。彼らが日本のアニメを翻訳し、海賊版のコピーをネットに流す中で、うわさが広まった。
「ワンパンマン」(2015年)/Courtesy IMDb
タフツ大のネイピア氏はアニメについて、大企業が後押ししたものではなく、口コミによって広まったポップカルチャーだと指摘する。
日本経済は繁栄し1980年代には日本は世界第2位の経済大国となった。欧米でも日本語のクラスが登場し、アニメやマンガは教育用のツールとして教室に入ってきた。
同時期に日本でも「オタク」文化がより主流となり、インターネットでつながりを持つファンが世界にアニメやマンガを広める手助けをした。
米国の若者が探していたのは、新しい物の見方を提供してくれる文化的な作品だった。彼らにとって日本は、AKIRAと同じくらい刺激的な場所に映っていた。そのサイバーパンクな風景と物議を醸すストーリーが提示する扉を抜ければ、今までとは異なる美的、精神的地平にたどり着くことができるのだ
タフツ大学のネイピア氏によれば、日本の文化は欧米よりもより陰鬱(いんうつ)で刺激的なテーマを扱っており、欧米はそうしたテーマの取り込みに時間がかかったようにみえたという。「(アニメが)西側の知的な空白を満たすための一つの手段となった」
1990年代後半、任天堂とゲームフリーク、クリーチャーズの3社によってゲーム「ポケットモンスター」が誕生。海外での、より大きなアニメ人気の先触れとなった。
ポケモン熱が世界を席巻し、アニメや人形、トレーディングカードにもなり、「ピカチュウ」は米テレビ界に不可欠の存在となった。任天堂は1996年にポケモンの「赤」「緑」「青」を3100万本以上売り上げ、テレビアニメは100カ国以上で放映されている。
「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」/Getty Images/Hulton Archive/Getty Images
1990年代に景気が低迷するなか、日本はそのブランドイメージを、ビジネスにおける大国から、ユニークな芸術文化の輸出国へと変換させようとした。
文化庁は1997年、マンガやアニメ、ゲーム、メディア芸術に関する展示について支援を始めた。
「もののけ姫」(1997年)/Courtesy IMDb
ソフトパワーという考え方はいまでは当たり前のものとなった。しかし、そのころまでに、アニメ文化はすでに独自の形を取りつつあった。
視聴者数は増え続けていた。スタジオジブリが制作し、宮崎駿氏が監督した「千と千尋の神隠し」は2001年に公開され、世界中を魅了した。
千と千尋の神隠しの世界興収は2億7700万ドルで、「君の名は。」(2016年公開)が登場して3億5700万ドルを稼ぐまでは、アニメ作品としての興収首位を維持した。
「千と千尋の神隠し」(2001年)/Courtesy IMDb
香港の美術館「M+」でチーフキュレーターを務めるドリアン・チョン氏は、アニメがロックンロールやハリウッドの映画と同様の存在だと指摘。世界規模に広がった文化であることにほとんど疑問の余地はないとの見方を示す。
アニメが海外へ進出し続けるなか、アニメ産業はもはや日本人だけのものではなくなっているのかもしれない。
チョン氏は、日本の外側での制作拠点や販売経路などでさらなる多様性がみられるようになるのではないかと指摘する。「アニメにはすばらしい物語を生み出す想像力がある。それが世界的な成功の最も重要なポイントとなっている」と語った。