パレスチナ人大虐殺「ナクバ」の生存者、世代を越えて語り継ぐ記憶
(CNN) モハマド・ザルカさんは恐怖で震えが止まらなかった。パニック状態の群集が、悲鳴を上げ、血まみれの姿で、ザルカさんが住むエルサレム郊外の小さな村になだれ込んできた。
「逃げなさい」。1人の女性が叫んだことを覚えている。ザルカさんは我に返り、家族に知らせるため家へ急いだ。当時12歳だったザルカさんは、自分の人生を覆す戦争が迫っていることを、まだ知らなかった。
1948年4月9日、ザルカさんが住んでいたパレスチナ(当時は英国の委任統治領)のエインカレムから1.6キロほど北東のデイル・ヤシーン村を、ユダヤ人武装組織が襲撃した。国連の記録によると、女性や子どもを含む少なくとも100人が殺害された。多くは衣類をはがれ、整列させられ、自動小銃で射殺された。
この虐殺は「ナクバ(大惨事)」につながり、およそ70万人のパレスチナ人が、イスラエル建国を目指すユダヤ人武装組織によって家を追われたり、避難したりした。
1948年に起きたデイル・ヤシーン村の虐殺の犠牲者100人以上を埋葬した集団墓地/AP
「次は自分たちだと思った」。88歳になったザルカさんは、米ニュージャージー州の自宅でCNNの取材に応じ、そう振り返った。「父が言った。『ここにはいられない。奴らが来て虐殺される』。私たちは何も持たなかった。武器も、自衛の手段も。あの日、私たちは難民になった」
ザルカさんは15日、ナクバの日のデモに加わった。世界中で何百万人ものパレスチナ人が、48年に殺害され、家を追われたパレスチナ人を追悼し、ガザ地区で今も続く残虐な戦争に抗議した。
この日を記念するのは、解放と帰還の夢が決して消えないよう、生き延びたナクバ世代が自分たちの経験を若いパレスチナ人に語り継ぐ意味もあるとザルカさんは言う。それが現在の戦争について理解し、公正かつ恒久的な平和に向けて取り組むための唯一の道だと確信している。
「私の心は血を流している」。ザルカさんは静かに語った。「この年になってもまだ、家に戻ることを夢見ている。パレスチナは今でも私の心と体に刻み込まれている。それは私が生まれた場所だ。私の思い出がそこにある。私の国だ」
故国への思い
ザルカさんは両親と6人の兄弟姉妹とともに、ほとんど何も持たずに徒歩でエインカレムから逃れた。村から村へと歩き、食べ物を探して、見知らぬ人の善意に頼って家やガレージに身を寄せた。その間に目にした残虐な光景は記憶に焼き付いている。
「生涯で最も恐ろしいものを見た。服が破れ、頭部をさらしたままの女性たちが泣き叫びながら、ユダヤ人が――当時はイスラエル人とは呼んでいなかった――自分たちの村を襲撃して住民を皆殺しにしたと訴えた」
米ニュージャージー州の自宅の庭で育つ葡萄を見せるザルカさん/Courtesy Jenan Matari
パレスチナ自治政府のパレスチナ中央統計局によると、ナクバで殺害されたパレスチナ人は1万5000人以上、破壊された町や村は531に上る。
ユダヤ人指導者は5月14日に独立とイスラエル国家建設を宣言。これに対してエジプト、シリア、ヨルダンが軍事行動を起こした。48年のアラブ・イスラエル戦争がアラブ側の勝利に終わることを、一家は願った。
数週間後、ザルカさん一家はエインカレムに戻った。しかし村はユダヤ人武装組織に荒らされ、住民は追い払われていたという。
何も持ち出せるものがないまま一家はヨルダンに逃れ、戦争が終わるのを待った。
1955年前後、エインカレムの学校に通うイスラエル人の生徒たち。右の建物には、48年のアラブ・イスラエル戦争で生じた破壊の痕跡が残る/George Pickow/Three Lions/Hulton Archive/Getty Images
一家は当初、見知らぬ人やモスクの善意に頼ってつましい暮らしを続け、アンマンのジャバルアルウェイブデ地区でほかのパレスチナ難民と一緒に1軒の家に住んだ。床は地面がむき出しで窓もドアも風呂場もなかった。何カ月もシャワーを浴びられないこともあった。
49年3月までにイスラエルは戦争に勝利し、避難したり家を追われたりした何十万人ものパレスチナ難民が自分の家と祖先から受け継いだ土地に戻ることを禁じた。ザルカさん一家も帰還はかなわなかった。
一家はヨルダンで新しい生活を築き始めた。苦労と貧困続きの中で、エインカレムに戻れる日を待ちわびた。しかしその日は来なかった。数十年後、ザルカさんは、故国からさらに遠く離れた米国に移り住み、自分自身の小さな家族を養おうとしていた。
「私たちは米国で生活を築いた。それでもここは家ではない。自分の家から他人に追い出されたことは決して忘れない。戻りたいという思いは止められない」
語り継ぐ責任
時間も距離も、パレスチナ人としてのザルカさんの記憶を薄れさせることはない。エインカレムの記憶はつらかったことも楽しかったことも、全て4人の子どもと8人の孫に語り継いでいる。広々とした果樹園から丘の上に上ると、遠くの山々と地中海が見渡せたことも。
エインカレムのことは、長い年月がたっても鮮明に覚えている。孫のザック・マタリさんが2019年にあの村を訪れた際は、現在のイスラエルにある自宅への行き方をビデオ電話で教えた。そこにはイスラエル人の一家が住んでいた。
「自分の村のことは隅々まで覚えている。あそこへ行けば、ここにアプリコットの木があって、あそこにイチジクの木があって、あれが私たちがいつも上っていた階段だと教えられる」
もう1人の孫で作家のジャナン・マタリさん(33)はSNSのインフルエンサーとして、パレスチナの歴史や文化、ガザの戦争を含む現在の情勢のことをSNSで教えている。
ザルカさんと孫娘のジャナン・マタリさん/Courtesy Shorouq Matari
祖父の話に耳を傾けるのが大好きだというマタリさん。祖父のナクバの経験に根差す自分の仕事は抵抗の形だと語り、離散したパレスチナ人全てが自分たちの声を届けるべきだと訴えた。
「祖父のことを思うと本当に悲しい。私がガザで起きていることに心をかき乱され、絶望に駆られ、これほどの痛みを感じているとすれば、祖父と祖父の世代は、自分たちが人生で切り抜けてきたことがさらに大きな規模で再び繰り返されるのを、どんな思いで見ているのか、想像を絶する」(マタリさん)
ナクバについて語るのは簡単ではないとザルカさんは打ち明けた。あまりにつらくなると、話の途中で間を置いたり、話を変えてしまうこともあるという。それでも悲しみの沈黙を保つことはせず、ナクバを生き延びた人たちを自宅に招いて家族や友人、地域の人たちと経験を共有してもらっている。
近所に住むダウド・アサドさん(92)は、デイル・ヤシーンの虐殺をすんでのところで生き延びた。この虐殺で、祖母や2歳だった弟など、家族や親類47人を失ったという。
デイル・ヤシーンの虐殺を生き延びたダウド・アサドさんが92歳の誕生日を祝う/Courtesy Jenan Matari
「私は死んでいたはずだった」とアサドさんは言う。ニックネームの「Al-shaheed Al-hay」は「生きる殉教者」の意味。自宅近くの浅い塹壕(ざんごう)に身を隠し、銃弾が髪をかすめる中、うずくまってただ祈り続けた。
「始まりは10月7日ではない。私たちの体験は、今まさにガザとラファで私たちが目の当たりにしていることそのものだ」とアサドさん。死んだ子どもたちの映像は特に、殺された自分の弟のことを思い出して心をかき乱されるという。
ザルカさんやアサドさんにとってこの戦争は、ナクバの恐ろしい記憶を思い起こさせる。離散した若いパレスチナ人に、そしてこの暴力の意味を理解しようとする全ての人に、それを知ってもらうことが大切だと考える。
「ナクバは決して終わっていない」とザルカさんは言う。
その証拠として2人は、イスラエル高官の発言を引き合いに出した。イスラエルの農相は昨年11月、ガザの戦争を「ガザのナクバ2023」と呼んでいた。
未来への希望
自分が愛したパレスチナを見ることも、エインカレムの静かな通りを散歩することも、おいしいアプリコットを口にすることも、もう二度とできないかもしれないと思うたび、ザルカさんの心は郷愁と悲しみに引き裂かれる。
だが自分の子孫たちにはそれができると確信する。
ザルカさんは、世界中の都市や大学キャンパスで行われている反戦抗議デモに希望を見出す。
「彼らのことを本当に誇りに思う」とザルカさんは語った。
「自分の話を子どもたちに語り継ぎ、彼らがたすきを受け継いでその子どもや孫たちに教え続けてくれる」
「パレスチナ人は決して忘れない」