2年に1度、8カ月間にわたり行われる芸術と文化の国際フェスティバル「ベネチア・ビエンナーレ国際美術展」が先ごろ開幕した。新型コロナウイルスの影響で1年延期されていた同美術展は、世界屈指のアーティスト作品を一堂に見られるまたとない機会だ。
ビエンナーレが初めて開催されたのは1895年。今回の開催では構成は3つに分かれており、一つ目は工業用建物が連なる旧国立造船所跡のアルセナーレとジャルディーニ・デッラ・ビエンナーレを舞台とするメイン会場での企画展だ。二つ目は国別のパビリオン。その多くはジャルディーニ会場内にあり、英国、フランス、日本、ブラジル、米国をはじめとする29カ国の歴史的、現代的な建築様式で建てられたパビリオンが立ち並ぶ。三つ目は、市内に点在するサテライト展示や関連企画イベントなどだ。
例年、メイン企画展のキュレーションを担当するアーティスティックディレクターが任命され、ディレクターはビエンナーレ全体の方向性を決定する。今回は、開催地のイタリア出身で、ニューヨーク・マンハッタンにあるハイラインのアートプログラムを本業とするチェチリア・アレマーニ氏がディレクターを務めた。同氏がビエンナーレで手掛けた企画展「ミルク・オブ・ドリームズ(夢のミルク)」は、アーティストで作家の故レオノーラ・キャリントン氏が執筆した同名の絵本からインスピレーションを得た。このシュールレアリスム(超現実主義)の絵本に敬意を表した企画展は、素晴らしい逸品に満ちており、女性アーティストを大いにたたえている。200人を超えるアーティストが参加した中で、男性による作品がほとんど見られないという点では、これまでの常識を覆した。
ビエンナーレの作品数は膨大で、時にその数に圧倒される。ほんの一部の作品を楽しみたいという場合でも、計画は必要だ。筆者は1日に約16キロ近く街を歩き回ったが、まだまだ時間が足りないという印象だった。
ビエンナーレの見学はできれば2日間は欲しいところ。履き慣れた歩きやすい靴を選び、水分補給も忘れないようにしたい。
1日目
まずは、アルセナーレのチケット売り場(もしくはウェブサイト)でチケットを入手しよう。それからラモ・デ・ラ・タナを経由し、アレマーニ氏が手掛けた夢のミルク展を鑑賞することから1日を始めたい。
チョコレートのような香りがかすかに漂ってきたら、デルシー・モレロス氏の「地上の楽園」(2022年作)に近づいている証拠だ。この作品はカッサバ粉、体を温めるスパイス、カカオパウダーが混ざった土の回廊で、深く没入できるようになっている。作品の中央に立ち、呼吸を整えよう。
デルシー・モレロス氏の「地上の楽園」/Roberto Marossi
十分にグラウンディング(地に足をつけ大地とつながること)を行ったら、次は20世紀初頭に撮影された一連の白黒写真を見に行こう。写真に写っているのは、エルザ・フォン・フライタークローリングホーフェンという好奇心旺盛なドイツ男爵夫人である。男爵夫人という肩書きに反して、裕福ではなかった。1910年代のニューヨークで、芸術家のためにポーズを取ったり、グリニッジビレッジにあるクラブでスーブレット役(演劇やオペラに出てくる陽気で異性の気を引こうとする小間使い)を演じたりして、自由奔放で気ままな生活を送っていた。美術家のマルセル・デュシャン氏と親交を持ち、ダダのアートシーンで伝説的な存在となった。展示写真には、彼女が盗んだり、ごみ箱から拾ったりした小道具やアクセサリーを身に着け、奇妙なポーズを取っている姿が写っている。すごい女性である。
アリ・シェリ氏の作品/Roberto Marossi
サフィーヤ・ファルハート氏の作品/Roberto Marossi
すぐ近くには、レバノン人アーティスト、アリ・シェリ氏が手掛けた3体の彫刻がある。テラコッタ、木、金属で作られた「タイタンズ」は、古代の守り神をイメージしているという。また、彫刻の近くには、チュニジアのアーティストで活動家のサフィーヤ・ファルハート氏による色鮮やかな数々のタペストリーが展示されている。幾何学的な形と具象的な形が混ざり合い、コラージュのように幾重にも重なった作品は、甘美な雰囲気を漂わせている。
夢のミルク展を一通り鑑賞した後は、アルセナーレ内にある仮設の国別パビリオンを見て回ろう。メイン展示の入口近くにある最初の建物群の2階には、ウクライナのアーティスト、パブロ・マコフ氏の作品が展示されている。同氏の作品「枯渇の泉」の前に置かれた曲線を描くベンチに腰掛けながら、危機的な状況下におけるウクライナ人アーティストの強さについてじっくりと考えてみてほしい。
次は、歩いて数分のところにあるイタリア館を目指してみよう。途中にあるニュージーランド館では、太平洋諸島の先住民族の血を引くアーティスト、ユキ・キハラ氏が撮影した数々の印象的な写真作品が見られる。キハラ氏は、植民地時代の古い楽園の概念に対し、異を唱えている。
イタリアにいるのにイタリア館を訪れないのは無礼だろう。広さ約1858平方メートルの館内では、サイトスペシフィック(特定の場所に存在するために制作)・インスタレーション・アーティストのジャン・マリア・トサッティ氏が、工業用ミシンをはじめとする使われなくなった工場設備を持ち込み、イタリアにおける産業の盛衰を暗示する作品を発表した。
マリア・トサッティの作品/Andrea Avezzù
イタリア館のもう一つの空間は、工業化が進んだ時代の自然の成り行きをイメージしたもので、水を張った光のない建物内に設置された桟橋に足を踏み入れることができる。ホタルのように繊細な光が水面を舞う様子を、じっくりと楽しんでもらいたい。次は、光のある空間に再び出て、ジャルディーニ会場内にある国別の常設パビリオンを目指そう。1894年に建てられた「セッラ・マルゲリータ(マルゲリータ温室)」内の居心地の良いカフェを経由して目的地のパビリオンに向かう。
米国館の外にあるシモーヌ・リー氏の作品/TIMOTHY SCHENCK
ジャルディーニ会場に入ったら、直感に従い、心をつかまれた建物に吸い込まれてみよう。各国の展示作品を徹底検証するつもりがないのであれば(これには何時間もかかる)、米国館のシモーヌ・リー氏による見事な作品「主権」を見逃してはならない。一連の彫刻作品は、黒人女性の経験を広く直感的に描いており、静かなひとときを過ごすのにふさわしいものだ。
シモーヌ・リー氏の作品/TIMOTHY SCHENCK
ビエンナーレの最優秀賞である金獅子賞はリー氏(国際展示部門)と、英国のソニア・ボイス氏(国別展示部門)に贈られた。両者とも、ビエンナーレにおける自国を代表する初の黒人女性アーティストであり、最優秀賞を獲得した初の黒人アーティストでもある。英国館にあるボイス氏が手掛けた展示「自分らしく感じる」もぜひ鑑賞したい。
そろそろお腹も空いてくるころなので、近くのレストラン「アル・コーボ」で早めの夕食を取ろう。ここは、運河沿いのメイン遊歩道のすぐ近くにありながら、驚くほど静かで上質なレストランである。繁忙期には予約必須だ。
英国館にあるソニア・ボイス氏の作品/Cristiano Corte/Courtesy of the British Council
英国館にあるソニア・ボイス氏の作品/Cristiano Corte/Courtesy of the British Council
2日目
見るものがたくさんあるので早起きしよう。本日は、市内に点在する展覧会に注目したい。まずはリアルト橋を渡り、パラッツォ・ベンドラミン・グリマンに向かう。ここで見られるのはメキシコ人アーティスト、ボスコ・ソディ氏の作品だ。ベネチアでは安価なものなどほとんどないが、このパラッツォ内の複数の部屋で開催中の展覧会は無料で、訪問する価値は大いにある。ソディ氏はこの春2カ月間ここに滞在し、貿易と文化の拠点であったベネチアの歴史からひらめきを得たという。これにより、欧州で取引されていた数々の貴重品がどこからやって来たのかを思い起こさせるような、抽象的な彫刻や絵画作品の展示が実現した。例えば、ソディ氏の多くの作品にはコチニールが使われている。これは、16世紀にスペインの植民者によって発見され、欧州で人気を博したメキシコの伝統的な赤色の顔料だ。その豊かで土のような色合いは展覧会のいたるところで見られる。温かみのある色彩は、豪華なパラッツォの内装とは対照的だ。
ボスコ・ソディ氏の作品/Laziz Hamani/Courtesy of Bosco Sodi
次は、水上バスの「バポレット」に乗ってアカデミア美術館へ。ここでは英国人の人気アーティスト、アニッシュ・カプーア氏の個展が10月まで開催中だ。もし臆病な性格なら、覚悟を決めたほうがいい。真紅と乾いた血のような茶色の閃光(せんこう)を放つ最初の作品は、血なまぐさく規模も大きい。この著名な作品には暴力性や怒りっぽさがあるが、つい見つめてしまう。
アニッシュ・カプーア氏の「Shooting Into the Corner」/Dave Morgan
次に続く部屋で見られるのは、いわば口直しのような作品だ。一連の作品には、世界で最も黒いことで知られる塗料のベンタブラックが使われた。ベンタブラックを巡っては、カプーア氏が美術分野における独占使用料を支払ったことで、物議を醸した。この塗料(塗料というより技術の一種)を開発したのは、英国拠点のサリー・ナノシステムズだ。あまりにも黒いことから、立体感のある物体に塗ると目を欺かれ、角度によっては平面的に見えるという。カプーア氏の個展はこれ以外にも、パラッツォ・マンフリンで開催中なので、気になるようなら、そちらの会場にも足を運んでみよう。
世界で最も黒い塗料を使ったアニッシュ・カプーア氏の作品/David Levene
もしくは、アカデミア美術館のすぐそばにあるパラッツォ・グラッシを訪れるのはどうだろう。パラッツォ・グラッシは、世界的に有名な日本人建築家、安藤忠雄氏が、この建物を所有するフランス人大富豪のフランソワ・ピノー氏のために、歴史的遺産と現代的改革のバランスをうまく取りながら改装を行った。ここでは現在、南アフリカ出身のアーティスト、マルレーネ・デュマス氏の展覧会が開催中だ。デュマス氏の絵画は情緒的なことで知られ、作品は時に驚きと楽しさを与えると同時に、見る者を誘惑する。
これまでと趣は異なるが、暑さを避けて一休みするのにサンタマリア・デイ・デレリッティ教会があるオスペダレットを訪れるのも良いだろう。イタリア人の衣装デザイナー、ベアトリス・ブルガリ氏が動画アートを支援するために立ち上げた「インビトゥイーン・アートフィルム財団」による8本の短編映画が上映中だ。
注目作品は、ナイジェリアに不法滞在する錫(すず)鉱山労働者たちを追って、彼らの労働条件やリスクに焦点を当てたカリマ・アシャドゥ監督の「プラトー」。このほか、短編シリーズ最後の作品「オルホダ・ルア(アウト・ラウド)」も見逃せない。ブラジル人アーティスト、ジョナタス・デ・アンドラデ氏は、海岸沿いの都市レシフェに住むホームレスたちをキャスティングし、パーカッション奏者のホメロ・バジリオ氏のサウンドトラックに合わせて一連のパフォーマンスを行い、ドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧(あいまい)にした。
マルレーネ・デュマス氏の作品/Marco Cappelletti
映画の後は軽食の時間だ。飲み物と一緒にベネチア名物のおつまみ、チケッティを堪能するために、運河沿いにあるのんびりとしたワインバー「ビノ・ベーロ」まで歩いて行こう。このバーでは、ベネチア生まれの食前酒スプリッツの提供はないものの、ワインの種類は豊富だ。ビノ・ベーロから数分歩いたところに、にぎやかな「イル・パラディソ・ペルドゥート」という食堂がある。大皿のシーフードパスタと1リットルの白ワインを注文しよう。注文した品はテーブルの上に叩きつけるように置かれるので覚悟したい。今日はたくさん見て回ったので、おいしく召し上がれ。
ここでお知らせが2つある。一つ目は、本日のツアーはこれでおしまい。二つ目は、まだベネチア・ビエンナーレのほんの一部しか見ていないということだ。あと1日滞在して、もっと楽しみたいという人には、以下のイベントがお薦めだ。
これがウクライナ:自由を守る会場の1階では、2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ウクライナのアーティストたちが制作した作品を集めた力強いグループ展が開催中だ。2階では、ダミアン・ハースト氏やマリーナ・アブラモビッチ氏など、現代アートの巨匠たちが、新作やアーカイブ作品によってウクライナ侵攻に抗議している。
会場: スクオーラ・グランデ・デッラ・ミゼリコルディア
開催期間:8月7日まで
ドイツの画家、アンゼルム・キーファー氏の個展。ベネチアを超巨大な14点の絵画で表現した。
会場:ドゥカーレ宮殿、サンマルコ広場
開催期間:10月29日まで
1962年に米国代表としてベネチア・ビエンナーレに参加してから、今年で60周年を迎える米国人アーティスト、ネベルソン氏の回顧展。
会場:ベッキエ公会堂、サンマルコ広場
開催期間:9月11日まで
魔法やオカルトがシュールレアリスム運動にどのように影響を与えたかを紹介する。
会場:ペギー・グッゲンハイム・コレクション、アカデミア
開催期間:9月26日まで