アジアから初めて、敷居の高さで知られるオートクチュールの世界への進出を果たした日本のファッションデザイナー、森英恵氏が死去した。96歳だった。
森氏のエレガントな作品は、ヒラリー・クリントン氏や皇后陛下といった高い注目を浴びる人々が身に着けてきた。森氏は11日に亡くなったと、同氏のオフィスが電子メールでCNNに伝えた。死因は明かされておらず、葬儀はすでに近親者で済ませたとした。
1926年、島根県に生まれた森氏は、自身最初の東京の洋裁店「ひよしや」を51年に開店。3年後には新たにもう1店舗を開いた。キャリアの初期のほとんどは映画業界の衣装を手掛けた。日本映画の黄金期と目される時代だ。
1972年、英ロンドンの日本大使館で開かれた関係者のみのファッションショーで作品を披露する森英恵氏(右から2人目)/Douglas Miller/Hulton Archive/Getty Images
しかし、森氏の志は世界を向いていた。当時、アジア出身のデザイナーの名は西洋のファッションの中心地でほとんど知られていなかったにもかかわらず。ニューヨークとパリを訪れた60年代の経験は成長につながった。フランスのデザイナー、ココ・シャネルとの出会いもそうだ。シャネルは森氏に、明るいオレンジの服に取り組むことを特に勧めた。
その助言で目から鱗(うろこ)が落ちたと、後に森氏は振り返っている。米紙ワシントン・ポストの90年の特集記事がそう伝えた。また全体的に日本の美のコンセプトは隠すことを基本に据えているが、不意に自分はアプローチを変えるべきだと思い立ったという。自らの手掛けるドレスを通じ、女性を際立たせようという考えがそこにあった。
森氏が成したのはまさにそれだった。しばしば西洋のシルエットに対し、チョウなどアジア風のモティーフを溶け込ませた。後に「マダム・バタフライ」の異名をとる所以(ゆえん)だ。森氏が海外で開催した最初のファッションショーのテーマは「イースト・ミーツ・ウェスト」。会場はニューヨークで、65年のことだった。当時の森氏が先駆者として道を切り開き、川久保玲氏をはじめ成功を収める日本のデザイナーがその後数十年間にわたって相次いで登場した。
森氏の代表的なモティーフの一つである蝶の柄がプリントされたスリーブレスワンピースを着るモデルのベネデッタ・バルジーニ/David Bailey/Condé Nast/Shutterstock
夫でビジネスパートナーの賢氏と共に、森氏は自身のブランドを育てていった。それは日本経済の高度成長の過程とも重なる。73年にはニューヨークの7番街にショールームをオープン。4年後、パリの有名なモンテーニュ通りにアトリエを構えると、欧州ファッション界に君臨する大物の多くが隣人となった。またアジアのデザイナーとして初めて、高級ファッションの最高峰団体とされるパリのオートクチュール組合への加入を認められた。これにより森氏の制作する服を形容する際、「オートクチュール」の語を使用することが可能になった。
幾年にもわたって、森氏のデザインは主要なファッションショーのステージに登場し、グレース・ケリーなどのスターを彩ってきた。森氏はまた、著名な舞台作品の衣装もプロデュースしている。パリ・オペラ座の「シンデレラ」や、ミラノ・スカラ座で上演された自身のニックネームと同名の作品「マダム・バタフライ」などだ。
国際的な地位を確立する一方、森氏は引き続き母国でも際立った業績を残している。日本航空の客室乗務員の制服を数世代にわたって手掛け、特に注目を集めた大胆なミニスカートのワンピースは、70年代の大半を通じて着用された。
パリで開催された2004~05年秋冬のオートクチュール・コレクションにモデルと登場した森氏/Victor Virgile/Gamma-Rapho/Getty Images
またバルセロナ五輪に出場する日本選手団のユニホームも担当。その翌年には、当時の皇太子さまのご成婚に当たり皇太子妃雅子さまの白いドレスをデザインした。
香水のビジネスで成功したにもかかわらず、森氏の会社は90年代に深刻な財政難に直面する。レジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章した2002年には事業の一部を売却。民事再生法の申請を行ったと、米紙ニューヨーク・タイムズは報じている。その2年後、パリのメゾンを閉じ、事実上オートクチュールからは引退した。それでも精力的な活動を後年にわたって続け、オペラの衣装のデザインや、自身の数十年に及ぶキャリアをたたえる様々な展示に携わった。