米空母キティホークが廃棄処分へ、70年代には人種暴動の舞台にも
韓国ソウル(CNN) それはかつて、インド太平洋における米国の軍事力を示す最大のシンボルだった。ベトナムからペルシャ湾まで数々の戦闘を経験し、ソ連の潜水艦との衝突事故も生き延びた。
だがUSSキティホークと呼ばれた艦船の輝かしい日々も幕を閉じる。役目を終えた巨大空母はワシントン州からテキサス州まで、約2万5750キロの最後の花道を歩み出した。その後は解体され、スクラップとして売りに出されることになる。
昨年、テキサス州ブラウンズビルにあるインターナショナル・シップブレーキング・リミテッドは、退役軍艦の処理を担当する米海軍海洋システム・コマンドから1ドル足らずでこの艦船を買い取った。
全長約319メートル、幅約77メートルの空母は巨大すぎてパナマ運河を通過することができない。そのためキティホークは今後数カ月かけて南米の海岸沿いを進み、メキシコ湾を抜けて、最終目的地へと向かう。
かつて空母キティホークだった船体がタグボートに曳航され、ワシントン州の海軍基地からテキサス州の船舶解体施設へ向かう/US Navy
初出航は1960年。ライト兄弟が初めて動力飛行機を飛ばしたノースカロライナ州の地名にちなんでキティホークと名づけられた艦船は、2009年に就役を解かれるまでおよそ50年間、米海軍での任務に服した。
キティホークは米国最後の石油動力空母。ニミッツ級の原子力空母が現れる前の時代の遺物だ。
間もなく後に残るのは、数々の物語に彩られ、時に波乱含みだったその歴史だけとなる。ベトナム戦争から冷戦期の大部分にまたがるその時代には社会が激しく揺れ動き、母国の姿を一変させる出来事も起きた。
人種暴動とベトナム戦争
1960年代初頭から10年間、キティホークはベトナム沖に停泊する米軍の中核を担った。
一時はここから戦闘機が1日100回以上もベトナムに出撃した。南シナ海のこの一帯はヤンキーステーションとよばれ、米海軍の艦隊が北ベトナムやベトコン軍を攻撃しようと待機していた。
ロシア製のツポレフTu16「バジャー」偵察爆撃機1機が米海軍の護衛戦闘機とともに空母キティホークの上空を飛行する。冷戦期の北太平洋での活動中=1963年1月/Museum of Flight Foundation/Getty Images
のちに空母と航空団は、大統領殊勲部隊章――並外れた英雄行為を称える栄誉――を授与された。これは67年12月から68年6月までのベトナムでの任務をたたえるもので、その中には68年春の北ベトナムによるテト攻勢の際、米軍と南ベトナム軍を支援した任務も含まれる。
キティホークは72年にベトナムで最後の戦闘を迎えたが、この最終任務に当たる間、のちに議会の調査団が「海軍の歴史の残念な1ページ」とよぶ事件の舞台となった。
海軍歴史遺産コマンドのウェブサイトの報告書によれば、フィリピン寄港の後ベトナム配属が延長されたのをうけ、艦内では緊張状態が高まっていた。そうした中、人種暴動が勃発(ぼっぱつ)した。
暴動に至るまでの経緯については諸説ある。配属の前夜フィリピンのバーで起きたけんかで、黒人水兵が調査を受けたのがきっかけだったという説もある。
白人水兵は食堂でサンドイッチのお代わりがもらえたが、黒人水兵は拒否されたということが積もり積もった結果だ、という説もある。
原因は何であれ、暴動は大規模なものだった。
「諍(いさか)いはたちまち艦内に広がって、黒人集団と白人集団が甲板のあちこちでもみ合い、拳やチェーン、レンチ、パイプで殴り合っていた」。ノートルダム大学クロック研究所のデビッド・コートライト現所長は、ベトナム戦争に対する黒人の抵抗運動を題材にした90年の記事の中でこう書いている。
キティホーク内で発生した暴動と人種間の緊張状態は間違いなく、当時の米国社会で明るみになっていた人種格差を反映するものだった。
キティホーク艦上で配置につく乗組員。トンキン湾の北ベトナム沖=1972年/Michel Laurent/AP
報告書には、4500人のキティホーク乗組員のうち黒人水兵は10%未満とある。また海軍歴史遺産コマンドのある報告書によれば、348人いた将校のうち黒人はわずか5人だった。
72年10月12日の夜から13日にかけて発生した事件について、議会の報告書には47人の水兵が負傷し、「そのうち6人ないし7人をのぞく全員」が白人だった、と書かれている。
議会の調査が発端となって、軍は人種格差の対処に乗り出した。一方で、小委員会の報告書そのものにも偏見に満ちた文言が散見され、米国で人種の偏見がいかに根強かったかを物語っている。
「小委員会では、キティホークでの暴動がごく一部の人間による一方的な暴力によるものだという立場を取る。彼らの大半が精神的に未熟で、乗船歴も1年未満、全員が黒人だった。この集団全体が『ならず者』として行動していた。そもそも彼らを初めから入隊させるべきだったのかという疑問が生じる」。報告書の概要はこのように締めくくられている。
とはいえこの事件や他の軍艦で起きた事件をきっかけに、海軍指導部は種々のプログラムに改めて本腰を入れることになった。これらをいち早く開始したのは当時海軍作戦部長だったエルモ・R・ズムウォルト・ジュニア大将で、狙いは艦隊内の人種関係を改善することだった。
海軍の統計によれば、2020年12月31日時点で現役海軍兵のうち黒人水兵は17.6%だ。
女性、ソ連潜水艦、諜報攻撃
退役したジェームズ・ファネル大佐の話によれば、自身が航空団の諜報(ちょうほう)部員としてキティホークに乗船したころには、人種暴動はすでに忘れ去られていたという。
「乗船している水兵のほとんどは歴史の専門家ではない。次の寄港地や作戦を待つだけだ」(ファネル氏)
だが1990年代、別の社会問題が持ち上がってくる――艦隊への女性登用だ。
ファネル元大佐が別の空母USSコーラルシーで最初に航行した87年、女性の乗組員は1人もいなかったという。「それから10年後キティホークに配属された時には、私の部下11人中8人が女性で、小艦隊と諜報部員として働いていた。かなり劇的な変化だ」
今では現役海軍兵のうち女性は20%以上を占めている。
暴動から女性登用までの間、キティホークはソ連の原子力潜水艦と冷戦中に緊迫の場面を演じた。その結果、米空母は船体に潜水艦の一部を残すことになった。
84年3月、キティホーク率いる戦隊ブラボーは、韓国との毎年恒例の合同軍事演習「チームスピリット」で、海軍演習の中心的な役割を担っていた。
When catapult officers reach the end of their tour aboard a carrier, it is tradition to launch their boots off the flight deck. This "boot shot" was on USS Kitty Hawk in 1970. The Kitty Hawk is currently on her way to the scrapyard after being sold for 1 cent. #WarshipWednesday pic.twitter.com/JaD3Jjz2Sc
— U.S. Naval Institute (@NavalInstitute) January 19, 2022
日本と韓国のほぼ中間の沖合で演習していたキティホークと護衛艦は、海軍兵がニューヨーク・タイムズ紙に語った言葉を借りれば、ソ連の潜水艦と「猫とネズミの追いかけっこ」状態だったという。この潜水艦はのちに総重量5000トン、約90人の乗組員を乗せたビクター級の「K―314」であることが確認された。
海軍歴史遺産コマンドの報告書によると、米軍は衝突までの数日間ソ連潜水艦を追跡し、15回も「キル」――撃沈シミュレーション――を行っていた。
グリーンピースとワシントンの政策研究所による海軍事件をまとめた89年の報告書『ザ・ネプチューン・ペーパーズ』によれば、艦隊はその後「偽装技術」でソ連の追跡をまこうとした。
これはある程度は上手くいった。
84年3月21日、午後10時を過ぎてまもなく、空母の位置をとらえようとしたK―314が航行上に現れた。
ロシア軍のウェブサイト「トップウォー」には、その後の顛末(てんまつ)について潜水艦側の説明が記載されている。
「(K―314の)艦長は、衝突を避けるために緊急潜水の開始を命じた。潜水を始めて間もなく、潜水艦は強い衝撃を感じた。数秒後――ふたたび強力な衝撃をうけた。明らかに潜水艦が安全な水位まで潜る時間はなく、米軍艦隊のいずれかの船に追突された。のちにこれはキティホーク航空母艦であることが判明した」
この衝突で5000トンのソ連潜水艦が8万トンの米空母に敵(かな)うはずもなかったと、元米海軍諜報部員のカール・シュスター氏は述べた。同氏は衝突についての海軍からの報告に目を通している。
「死ぬほど恐ろしかったに違いない」(シュスター氏)
「キティホークに乗船していた誰もが潜水艦が潜航するだろうと考え、反対側で検知できるだろうと期待していた」と同氏は言い、スクリューのノイズとそれにより発生する圧力波のせいで近くに迫っていた潜水艦を検知できなかった点も指摘した。
「それどころか(潜水艦の艦長は)空母との距離を大きく見積もり過ぎていたのだろう、手遅れの状態になるまで潜航を始めなかった。それでスクリューの一部が空母の船体に残された」とシュスター氏は述べた。
K―314は動力を失い、のちにウラジオストクのソ連の港まで曳航(えいこう)されることになる。
キティホークは冷戦時代の勲章――ソ連潜水艦のスクリューの一部――を船体に残したまま、自前の動力で航行し続けた。
空母の船体には、水中でのより静かな潜航を可能とするソ連潜水艦のポリマー製吸音コーティングからはがれたタイルも付着していた。この事件を米軍による諜報奇襲攻撃と呼ぶ者もいたが、米軍海軍協会によれば、キティホークの乗組員も空母の司令センターに赤い潜水艦の「勝利マーク」を一時的に描いて、これをたたえたという。
米国主導の連合国軍によるイラク空爆の任務中、キティホークに着艦する戦闘機を見守る乗組員=1993年1月19日/Barry Iverson/The Chronicle Collection/Getty Images
晩年
ソ連潜水艦との衝突事故後も、キティホークは20年以上米軍の大平洋艦隊の要であり続けた。
90年代初めにはソマリアでの米軍作戦をサポートし、サダム・フセインが支配していたイラクへの空襲の際には射場支援も行った。
キティホークは98年夏に日本へ向かい、米海軍第7艦隊の母港である横須賀の海軍基地を母港として10年間停泊し、米軍本土の外に拠点を置く唯一の米海軍航空母艦となった。
だが今や、米国にはキティホークの帰る場所はない。
横須賀基地を出港して相模湾へ向かうキティホーク。奥に日本の漁船団が見える=2005年5月17日/US Navy
60年代にボイラー技師として乗艦したジェームズ・メルカ氏は同艦の退役軍人協会を率いて、キティホークを博物館船にしようと働きかけた。ニューヨーク州のイントレピッド、カリフォルニア州のミッドウェイやホーネット、サウスカロライナ州のヨークタウン、テキサス州のレキシントンはそうした博物館船として知られている。
だが米海軍協会(USNI)ニュースの報道によれば、このアイデアは2018年に海軍から却下された。
「キティホーク級の航空母艦がどんなものか……知る人が誰もいなくなってしまう」とメルカ氏はUSNIに語った。「写真で見るだけで、実際の艦を見ることも、艦内を歩くこともできなくなる」
ファネル氏は、空母の記憶は従軍した数十万人の水兵によって語り継がれるだろう、と述べている。
「私は大勢いる水兵のうちの1人にすぎない」と同氏。「この艦でどれだけ多くの人が人生を過ごし、どれだけ多くの思い出が生まれてきたことだろう」
航空母艦の運命が終わりを迎えた時、ファネル氏は元同僚たちに短い手紙を送った。ともに過ごした日々や失われつつあるものを思い出す記念として。
「ただひとつ私たちをつなぎとめていたもの……USSキティホークを失い、懐かしい思い出に思いをはせることは、ある意味とても残念だ」と手紙には書かれていた。
「人生は続き、記憶は色あせる。それよりも少しばかり早く、我々の艦は切り刻まれて剃刀(かみそり)の刃になる」