香港、英エリザベス女王追悼に別の目的 中国への反抗
英国と香港の関係は19世紀にさかのぼる。当時大英帝国は中国(清)に対するアヘンの密輸に熱心だったが、中毒の蔓延(まんえん)に危機感を抱いた清との間でアヘン戦争とアロー戦争(第2次アヘン戦争)が勃発。その後の講和条約で、清は英国に対する領土の割譲を余儀なくされた。
英国による香港統治は156年に及んだ。1997年に中国へ返還されたものの、英国の影響は英語の街路名やコモンロー(英米法)の採用にその名残をとどめている。
エリザベス女王自身は、植民地時代の香港を75年と86年の2度訪問。現国王のチャールズ3世は返還式典に出席した。
とはいえ植民地時代の香港が平穏で、統治に対する批判がなかったわけでは全くない。60年代にはフェリーの運賃値上げへの抗議と労働者の権利改善の要求が暴動に発展。ストライキが頻発し、各地で爆弾テロも発生するなど街は機能停止に陥った。
これらの抗議行動の後、香港政庁は一連の福祉政策の改革に乗り出し、公営住宅プログラムの導入や義務教育の無償化を行った。
ただ植民地時代に批判的な人々は、英国統治下でも香港人には普通選挙権がなかったと指摘する。また英政府は本来の義務を果たさなかったと感じている人も多い。中国への返還に当たり英国の市民権を香港人に付与せず、ほとんどの人々に発給したパスポートは機能が限定的で、英国での居住権、労働権が認められないものだったからだ。
国安法の施行を受け、英国は新たな種類の査証(ビザ)を導入。そのビザがあれば市民権の取得に道が開けるとした。
米ワシントンを拠点とする活動家で、香港の植民地時代最後の数年間に生まれた敖卓軒氏は、年長の世代がエリザベス女王の治世を懐かしむ感情は理解できるし尊重するとしながらも、自らはそれを共有しないと明言。「自分にとって、英国の君主制の富と名声は、大英帝国の暴力と拡張主義から切り離せない」と述べた。
その上で、中国政府が過酷な法律を用いて民主派の活動家を訴追する現状は、英国の統治にも暗い側面があったことを想起させると指摘。具体例として、扇動罪に対する植民地時代の法律を挙げた。