OPINION

追悼:コービー・ブライアント、見果てぬ「ビッグプラン」に寄せて

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現役時代から引退後のプランについて考え続けていたというブライアントさん/Frazer Harrison/Getty Images

現役時代から引退後のプランについて考え続けていたというブライアントさん/Frazer Harrison/Getty Images

(CNN) この原稿を書く数時間前、私はオレンジ郡にあるコーヒーショップの店内に腰を下ろし、オートミールを味わいながらタイピングに没頭していた。そこへ、友人からテキストメッセージが届いた。

「ニュースで、コービー・ブライアントが死んだと言っている」

私は信じなかった。

今もなお、信じていない。

この2年間、私は1996年から2004年までのロサンゼルス・レイカーズについて取材し、その内容をまとめた本を執筆してきた(つまり、シャックことシャキール・オニール、コービー・ブライアント、そしてフィル・ジャクソンヘッドコーチが君臨していた時代だ)。作家が1つの題材を深く掘り下げ、多くの日々と時間を費やして特定の人々を理解しようとしているとき、その対象が突然存在しなくなったかもしれないなどと吹き込まれても、なんというか、まったく意味をなさないのだ。単純に、そうした結論を導くことができない。ケネディ大統領が暗殺されたという結論を、私の両親が導けなかったように。レン・バイアス(訳注:1980年代初めにカレッジバスケットボールで活躍し、将来を嘱望されたスター選手)の死という結論を、当時14歳の私が導けなかったように。

したがって、この場合も、私はまだそのニュースを信じていない。

私の本に登場するコービー・ブライアントは、複雑な人物だ。おそらく、10年前にウォルター・ペイトン(訳注:70年代後半から80年代にかけて活躍したアメフト選手)の伝記を書いて以降、私が扱った中で最も多面性を備えたアスリートといえるだろう。ブライアントは、米プロバスケットボール(NBA)の通算得点記録歴代4位の選手というだけではない。NBAを5度にわたって制し、オールスターに18回出場した選手というだけではない。ペンシルベニア州の高校を96年に卒業し、NBAのドラフトにエントリーしたその大胆さは、生意気だと反感を買っても仕方のないものだった(学校の体育館で行われた記者会見で、「大学を飛ばして、NBAで才能を試すことに決めた」と自ら宣言する映像が残っている)。学生時代のチームメートの1人が私に語ってくれたところによると、コービー少年は気温35度の日にダッシュを繰り返した後で車の座席にこもり、ヒーターを全開にしていたという。忍耐力を身につけるための、彼なりのトレーニングだった。

レイカーズへの加入が決まり、ロサンゼルスへやってきたときから、ブライアントにはわかっていた(ただそう信じていたのではなく、事実としてわかっていた)。自分こそチームで最高の選手なのだということが。いや、チームどころかリーグ全体でも最高の選手に決まっているではないか。しかしそれは、単純に間違いだった。当時のレイカーズにはシャキール・オニールが、ニック・ヴァン・エクセルが、エディー・ジョーンズがいた。一方のブライアントはまだ未熟で、経験不足だった。ディフェンスのスキルは低く、シュートミスを連発。それでいて、人にパスするくらいなら段ボールでも食べさせられる方がましといわんばかりのプレーに走るのだ。

とはいえ、彼には類いまれな何かがあった。ほとんどの人がかつて目にしたことのなかった才能。それは、一点の曇りもない自信だ。自分を疑うという発想自体が、そもそも彼の頭の中には存在しなかった。ブライアントがシュートを打つ。外れる。それでも彼はまたシュートを打つ。97年、ユタ州で行われたNBAウエスタン・カンファレンス・ファイナルの第5戦。ブライアントは終盤で4度のエアボール(訳注:シュートがリング、バックボード、ネットのいずれにも触れずに外れること)を記録する失態を演じ、チームも98―93で敗れた。こうした結果を引きずり、つぶれてしまう若手アスリートは少なくない。しかしその夜、レイカーズの選手を乗せた飛行機がロサンゼルスに到着すると、ブライアントはすぐに近くの高校の体育館に向かい、ジャンプシュートの練習をひたすら繰り返した。太陽が昇るまで。

レイカーズで一時代を築いたコービー・ブライアント(左)とシャキール・オニールAFP/Getty Images
レイカーズで一時代を築いたコービー・ブライアント(左)とシャキール・オニールAFP/Getty Images

チームメートのオニールとは異なり、ブライアントは自らを仲間意識の強い人間だとは思っていなかった。ナイトクラブやボウリングに友人と繰り出すことには関心が向かないのだ。ある時、ブライアントよりはるかに社交的な性格のオニールが、チームメート全員に声をかけて遠征先のシーフードレストランで豪華な料理をごちそうしたことがあった。ブライアントは30分遅れで店に現れたが、ヘッドホンを耳に当てたまま、本を手にして、自分1人のテーブルについてしまった。またある時には、レストランで偶然会ったベテランのチームメート、ロバート・オーリーがビールを飲んでいるのにひどく驚き、こう尋ねたこともある。「試合の前の晩に、どうしたら酒なんか飲めるんだ?」オーリーはあっけにとられた。試合までは24時間ある。しかも開幕前のプレシーズンマッチだ。長年レイカーズでプレーしたリック・フォックスは「そういうところがまさにコービーなんだ。いつだって納得したためしがなかった」と、当時を振り返った。

オニールはブライアントの兄のようになりたいと考えていたが、ブライアントは兄がいてほしいとは思っていなかった。おじもいらない。誰かに何かを打ち明ける必要などなかった。好きな映画はチャールトン・ヘストン主演の「十戒」(飛行機での移動中に繰り返し見た)。時間つぶしにヒップホップの歌詞をメモに書くのを好む。大多数のアスリートとは違って、ブライアントは引退後のことを絶えず考え続けていた。彼にはプランがあった。大きなプランだ。それを遂行することで地位を築き、前向きな思考を身につけ、リーダーとしての役割を果たそうとしていた。

Jesse D. Garrabrant/NBAE via Getty Images
Jesse D. Garrabrant/NBAE via Getty Images

ブライアントがコロラド州のホテル従業員の女性をレイプしたとして2003年に訴えられたことはよく知られている。長引く訴訟への関心の大きさは、しばしばО・J・シンプソンの事件を彷彿(ほうふつ)させた。多くの人々にとって、この事件はコービー・ブライアントの終わりを意味するように思われた。社会で発言力を持つスポーツ界のヒーロー、1人のスター選手の終焉(しゅうえん)だ。訴訟が示談で解決した後も、そうした風潮は続いた。コービー・ブライアントに再び声援を送れるだろうか? 一体どうやって彼を信じるというのか?

しかし、結局人々はその通りのことをしたのだった。ブライアントのキャリアが終わりに向かおうとしていた数年前、ひたすら勝利を渇望し、自己欲求を満たすことに余念がないとみられていたこのスター選手から、それまでの気負いが消えていった。彼は笑い、ジョークを言い、人を巻き込み、背中を押したり励ましたりするようになった。チームメートと連れ立って遊んでは、自らのスピードやスキルの衰えをネタにして笑いをとったりもした。結婚は当然、彼にとって素晴らしいことだった。4人の娘の誕生もしかり。彼は、メディアの報道とは裏腹に、人間味あふれる人物だった。そして次第に自分でもそう認識するようになっていたのだ。

娘のジアナさんと/Ethan Miller/Getty Images
娘のジアナさんと/Ethan Miller/Getty Images

そんな矢先に、41歳の若さで、彼は逝ってしまった。自らバスケットボールを教えていた13歳の娘とともに。

人生が素晴らしいものになろうとしていた、まさにその時に。

作家のジェフ・パールマン氏による寄稿。パールマン氏の9冊目の著書となる文中のレイカーズに関する書籍「Three Ring Circus: Shaq, Kobe, Phil and the Crazy Years of the Lakers Dynasty」は2020年9月に刊行予定。記事における意見や見解は全てパールマン氏個人のものです。

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