(CNN) 「ベトナム戦争を扱う米国の芸術的、文化的作品の大半は、たとえ反米的な批判を盛り込んだものであっても、米国人をしっかりと物語の中心に据える。それは確固たる信念の下、露骨に行われる」。作家のビエト・タン・ウェン氏は、2016年の著書「ベトナム戦争と戦争の記憶」でそう書いている。この格言は、ハリウッドが手掛ける戦争映画のほとんどに拡大できるだろう。米国人が戦争をどのように感じようと、主たる目的は大抵の場合、米国人特有のトラウマ(心的外傷)として戦争を想像、体験することに他ならない。
ノア・ベルラツキー氏/Noah Berlatsky
アレックス・ガーランド監督の映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」を巡る論調は、米国における現行の党派的分断に向けた省察並びに警告だとする内容が大半を占める。それも無理はない。監督本人が複数のインタビューで示した構図に照らせばなおさらだ。同監督はそこで、現在の左派と右派による国内の分裂を「極めて危険」と評している。
しかし監督が何を語ろうと、「シビル・ウォー」を単に現在の米国政治に対する一論評と捉えることはできない。本作は、米国が国外での戦争経験を自国内のものとして取り入れる伝統の一部でもある。劇中では外国の従軍記者の経験や、実際には外国で起きた戦時下の残虐行為が米国での事象に置き換えられている。
ガーランド監督による巧妙で曖昧(あいまい)な語り口は、そうした戦争映画の伝統を器用に覆い隠し、別の物に作り変えている。実際には自らもその伝統の一翼を担っているにもかかわらず。それが部分的に表れているのが、物語の焦点を明確にジャーナリストに絞り込む手法だ。戦争の観察者として登場するこれらのジャーナリストたちの視点は、ある時は観客のそれと重なり、ある時は全く正反対のものになる。
映画の設定は近未来。米国は分裂した複数の派閥が武力衝突を繰り広げており、大統領(ニック・オファーマン)に忠実な政府軍が劣勢に立たされている。フォトジャーナリストのリー(キルステン・ダンスト)とジャーナリストのジョエル(ワグネル・モウラ)は、大統領に決定的なインタビューを行うべく首都ワシントン行きを決意する(大統領はジャーナリストを見るなり発砲してくるともっぱらの評判だが)。このベテラン記者2人に、若いカメラマン志望のジェシー(ケイリー・スピーニー)と年季の入った従軍記者のサミー(スティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン)も同行。後者はリーとジョエルの師匠筋に当たる。
キルステン・ダンストが演じる主人公の軍事ジャーナリスト、リー・スミス(中央)/Courtesy of A24
「シビル・ウォー」の政治的背景は意図的に曖昧にされている。大統領は記者嫌いの権威主義者で、どことなくトランプ前大統領を想起させる。劇中ではっきりと、リビアのカダフィ大佐のような独裁者になぞらえる場面もある。ただ米国から離脱した州には、それぞれ民主党と共和党の強固な地盤であるカリフォルニア州とテキサス州が共に含まれており、現行の党派に沿った分裂の仕方にはなっていない。
実際に米国で起きた南北戦争と異なり、映画の中の内戦には人種もしくは人種差別に絡む具体的な意味合いは一切見られない。ジェシー・プレモンスが演じる名前のない、恐るべき大量殺人者の戦争犯罪人は、米国外で生まれた人々に恨みを抱いているようだが、観客が理解する限り、それも移民に対する当人の排斥感情であり、より広い意味での民族浄化や人種に根差したジェノサイド(集団殺害)の兆候は見受けられない。
具体的な設定を描くのを拒否する本作の姿勢は、責任逃れとも捉えられかねない。しかし同種の責任逃れは、ハリウッドの最も代表的なベトナム戦争映画の大半で発揮されている。例を挙げればフランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」(1979年)とスタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」(87年)は、戦争の政治的背景に関する説明や考察にあまり時間を割かない。代わりに両作品が焦点を当てるのは恐ろしく悲惨な戦闘体験であり、暴力から逃れられない悪夢のようなその状況だ。どちらも個人が負ったトラウマや精神的な危害を映画の中心に据え、政治性や道徳性はほぼ重要視しない手法をとる。
ハリウッドのベトナム戦争映画は、一般的に米国が正しいことをしたかどうかは問題にしていない。あるいは米国の選択がベトナムの人々にどのような影響を及ぼしたかを描く内容でもない。そうではなく、これらの映画が問題にするのは、米国人の主人公たちの抱える心の葛藤に戦争がどう影響するのかだ。通常、これらの主人公は兵士という設定だが、政治家や銃後の人々になる場合もある。米国で作られる非常に多くのベトナム戦争映画が米国本土を舞台にしているのはそれが理由だ。
「ランボー」(82年)ではベトナムからの帰還兵が単身、米国の地方の町に戦争を仕掛ける。これはベトナム戦争を自国に持ち込む比喩表現となっている。「若き勇者たち」(84年)では、キューバと中米の軍隊が米国を侵略する。ハリウッド映画の米国人たちは一般的に、米国外交の純粋な被害者と見なされる。実際、そうとしか描かれていない。そのような文脈の中では、映画を作るに当たり戦闘は外国よりも米国で起きる設定にするのが道理だ。また米国人は植民される側として描く方が、植民する側よりもしっくりくる。
ベトナム戦争を題材にしたスタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」。手前右の兵士がマシュー・モディーン演じるジョーカー/Warner Bros/Kobal/Shutterstock
「シビル・ウォー」はこの原動力を改めて生み出すと共に、ある程度それに対して疑問を呈してもいる。リーやジェシー、その他の記者たちは命の危険を顧みず、兵士たちに続いて戦闘に乗り込む。目を見張るような暴力を捉えた、完璧な衝撃を伝える写真を撮るためだ。初めて戦場報道の世界に足を踏み入れるジェシーは、それまで感じたことのない恐怖を味わいながらも、同時にこれほど生きている実感を得られたことも今までなかったと口にする。
戦争を一人の人間の成長物語として、または勇気や才能を試す場として描くパターンは、いくつかの戦争映画に共通してみられる。「フルメタル・ジャケット」のジョーカー(マシュー・モディーン)が受ける戦火の洗礼は、ジェシーの体験とある意味で似ている。ただ「シビル・ウォー」の場合は、より内省的な描き方だと言えるだろう。ジェシーは暴力のみに興味をそそられているのではなく、暴力の画像を自らのカメラで記録できることに魅了されている。この恍惚(こうこつ)感によって、ジェシーは観客を代表する立場になる。観客もジェシーと同様、ガーランド監督の繰り出す残虐行為の描写に愕然(がくぜん)としつつ、恐らくは夢中になるからだ。それは荒涼とした集団墓地から、耳をつんざく銃撃戦といった形で表れる。
ジェシーにとって最初の重要な写真が、複数の遺体を撮影するリーの写真だという点も特筆に値する。ジェシーが考える戦争写真の魅力とは、ただ最悪の事象を目にすることだけではない。それは最悪の事象を目にする「自分自身を」見つめることだ。戦争映画の持つパワーとは、観る者がそうした苦難に遭う人々の立場に置かれてしまう点にある。ジェシーと同様、観客は自分自身が暴力の標的になる感覚を味わう。それは恐ろしくも刺激的な体験だ。
ガーランド監督による本作からは、我々が現在直面する危機への痛烈な批判という部分はあまり感じられないかもしれない。どちらかと言えば、自身の撮りたい世界を好きなように撮った映画ということになりそうだ。「シビル・ウォー」に核兵器や米国外交への言及はない。描いているのは独裁者の大統領に支配された米国が、その暴力性を内側に、ただ内側のみに向けるだろうという想定だ。しかし、我が国の歴史と世界各国における現在の米軍の関与は、それがいかに現実とかけ離れているかを証明している。
伝統的に、映画に表れる米国人の想像上の苦難とは、米国が標的にしてきた人々が味わうより過酷な苦難の裏返しに他ならない。ジェシーは自分のレンズを通して見た悪夢のようなイメージに愕然とし、興奮し、恐怖する。しかし「シビル・ウォー」のようなハリウッドの戦争映画が、あまりにも熱烈かつ殊更にその焦点を米国人の体験へと合わせる限り、これらの作品は今後自国の暴力がもたらす真の危険をフィルムに収めるのに苦労することだろう。どれだけ凄惨(せいさん)なイメージを映し出しても、どれほどの大音量で爆弾を爆発させても、それは変わらないはずだ。
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ノア・ベルラツキー氏は、シカゴ在住のフリーランスの作家。記事の内容は同氏個人の見解です。