ウクライナの若き英雄 16歳でマイダン革命に参加、24歳でロシアとの戦いに死す
「私の青春、私の人生、私の戦い」
22年に戦争が勃発すると、不動産開発からキーウの緑地を守る活動でその名を知られていたローマンさんは、キーウの戦いに参戦して首都からロシア軍を撤退させた。
その後は第93独立機械化旅団に入隊し、ロシア占領地から町を解放したり、ウクライナ北東部スーミ州で戦闘に加わるなどした。
ローマンさんはこの間ずっと、インスタグラムに自分や仲間の画像を随時投稿した――処刑されたウクライナの知識人ミハイル・セメンコの詩を投稿したこともあった。
「私が死ぬのは、死期が訪れたからではない/人生を生きたからだ」「万物が物言わず成長する時、私は旅立つだろう/最後の嵐の夜を前にして――/死が私の心臓を止めると同時に、忽然(こつぜん)と/私の青春、私の人生、私の戦いを止めた瞬間に」(ウクライナ系米国人作家のボリス・ドレイリュク氏の翻訳から)
一方、父親はローマンさんが置かれていた危険な状況を考えないようにしていた。
「元気か? 困っていることはないか? そう尋ねることしかできない。はるか遠く離れ、息子の置かれている状況に何もしてやれない父親の愚かな問いかけだ」。11月に墓地を訪れた際、タラスさんはこう語った。
22年6月に戦死した後、ローマンさんの遺体はキーウに運ばれ、市長を含む数百人が参列する中で葬儀と追悼式が行われた。独立広場にも大勢が追悼に駆け付けた――13年、この先輝かしい人生を控えた若き抗議参加者が、まさに戦ったその場所で。
昨年6月、ローマンさんの葬儀には大勢の人々が参列し、弔意を表した/Genya Savilov/AFP/Getty Images
あれから1年以上が経過し、ローマンさんが遺(のこ)した足跡とマイダン革命の記憶は今もウクライナ人の心に響いている。戦争が2年目の冬に突入する中、ウクライナは全力でEU加盟を目指している。
この長年の夢は11月、実現に一歩近づいた。欧州委員会が具体的なウクライナ加盟交渉を年明けから始めるべきと勧告したのだ。
CNNがローマンさんの墓を訪れた際にも、2人の若い女性が墓参りに来ていた。ローマンさんの遺影のそばには、手向けられたばかりの花束とキャンドルが置かれていた。
「息子が自分たちを誇りに思ってくれたらうれしい。(息子の死から)1年以上経つが、ほぼ毎日何かしらローマンに関連することが起きている」とタラスさんは感情をあらわに語った。「息子の名のもとに大勢のウクライナ人が戦場へ向かい、息子の偉業を引き継ごうとしている。私の目には今でもローマンの雄姿が見える」