ウクライナの若き英雄 16歳でマイダン革命に参加、24歳でロシアとの戦いに死す
欧州の未来をかけて
マイダン革命のきっかけは、当時のビクトル・ヤヌコビッチ大統領が欧州連合(EU)との貿易協定を突然破棄したことが始まりだった。協定を支持していた人々は、ウクライナと西側との関係が緊密化し、経済成長がもたらされ、国境を越えた交易が始まるだろうと期待を寄せていた。
ところが、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領はロシア政府の方を向き、ウラジーミル・プーチン大統領と新たな協定を結んで、EUとの関係強化という反対勢力の夢を打ち砕いた。
怒りに燃えた数千人のデモ隊は、キーウのマイダン広場、別名「独立広場」を占拠した。数カ月のうちに抗議活動の規模は拡大し、民主主義志向や親EU路線に加え、ヤヌコビッチ大統領の政策、政府内に蔓延(まんえん)する汚職、警察の暴挙に対する国民の反感も反映するようになった。
こうした抗議活動では必ずローマンさんの姿があった。当時16歳のローマンさんを見つけたければ「(衝突が)一番激しいところに行く」のが一番だったとタラスさんは言う。「(あの頃は)99%の確率で現場にいた。残り1%は、力尽きてどこかで睡眠を取っていた」
暴動が激しさを増すにつれ、ローマンさんもたびたび衝突に巻き込まれた――だがその後父親がCNNに語ることになる、理想主義的な情熱の兆しも育まれていた。
歴史学者のマーシ・ショア氏は、ローマンさんに革命について尋ねた時のことを振り返った。抗議活動に参加して母親は戸惑っているのではないかという質問に対し、10代のローマンさんはこう答えたという。「母はフルシェフスキー通りで火炎瓶を作っていたよ」
その後政府による弾圧はエスカレートし、14年2月20日にはついに警察と政府軍がデモ隊に実弾を発砲した。革命の期間中に約100人が命を落としたと言われている。最終的にヤヌコビッチ大統領は退任し、ウクライナ国外に逃亡した。
抗議運動を皮切りに、ウクライナではクリミア併合や東部ロシア国境付近での紛争など一連の出来事が混乱をもたらした。だが同時に数々の政治改革も行われ、変化を待ち望んでいたウクライナの若者に希望がもたらされた。
「木を見て森が見えないのと同じように、マイダンに参加していた僕らには、革命がウクライナの歴史全体におよぼした影響が今はまだ見えないかもしれない。だが、重大な影響を与えたのだと僕は思いたい」。14年、革命記念日を前にユーチューブにアップロードされた動画の中でローマンさんはこう語った。
「僕にとっては、すべて無駄ではなかった」とローマンさんは続けた。「この国では数多くのプラスの変化が起きている。それもマイダンあってこそだ」