文化大革命から50年 中国を永遠に変えた革命の功罪
これは珍しい体験ではなく、他の大学教授や教師も集会や自己批判大会でつるし上げられた。北京郊外の大興区では地主や「悪質分子」の殺害が命じられた結果、300人以上が犠牲になっている。
国内が混迷を深める中、毛沢東の姿勢は激しさを増した。軍の介入も促した結果、「人々は文字通りお互いを攻撃し合うに至った」という。毛の視点からすると、抵抗する党幹部に代わり夫人の江青が率いる「四人組」が実権を握るなど、文革は大成功だった。
ディケーター氏は、こうした状況に共産党が多少なりとも歯止めをかけられたかもしれない時点が少なくとも2度あったと指摘する。毛沢東の求心力が低下していた大躍進後の時期と、軍幹部が毛夫人率いる文革小組に公然と反抗した67年2月だ。
だが毛は大躍進失敗の責任の一端を引き受けることで、他の党幹部にも連帯責任を認めさせ、その権力を切り崩すとともに自身の立場を強化した。67年の場合、首相だった周恩来らを味方につなぎ留め、自身に批判的な軍幹部を糾弾・粛正した。
だが文革を止められなかった究極的な理由は、毛沢東が絶対的な権力を握っていたことにある。ディケーター氏は、「ソ連でフルシチョフが脱スターリン化を始めた際は、スターリンの遺体を霊廟(れいびょう)から引きずり出しても大丈夫だと分かっていた。なぜならレーニンも共に埋葬されていたからだ」と指摘。一方、中国の場合は共産党の全歴史の中心に毛がいたため、党がその過去を批判的に検証することができないという。