東京大空襲から75年、知られざる「史上最悪の空爆」 生存者が語る
東京(CNN) 辺り一面、火の海。それが当時8歳の二瓶治代(にへい・はるよ)さんの見た光景だった。
米軍の投下した爆弾で炎を伴う旋風が発生し、すさまじい勢いで家々の畳を吹き飛ばす。畳は道にたたきつけられ、家具や人もそこに投げ出される。
「炎が燃え移って、人は火だるまになった」と、83歳になった二瓶さんは語る。
空襲を受けて燃え上がる家屋/Time Life Pictures/Wartime Japanese Govt. Photo/The LIFE Picture Collection/Getty Images
二瓶さんが眠っているとき、爆弾の一斉投下が始まった。当時の東京はほとんどが木造家屋で、二瓶さんは両親、兄、妹とともに暮らしていた家から逃げ出さざるを得なかった。
通りを駆け抜けるうちに、ものすごい熱風を浴びて防空頭巾に火が付いた。それを払い落とそうと父の手を離した一瞬、父は逃げ惑う人ごみに巻き込まれ、姿が見えなくなってしまった。
炎が迫りくる中、交差点で父を探して泣き叫んでいると見知らぬ人が現れ、自分の体で二瓶さんを包むようにして炎から守ろうとした。交差点にどっと人がなだれ込んだので、二瓶さんは地面に押し倒された。
人々の下敷きになって意識が朦朧(もうろう)としていると、上の方から誰かが押し殺した声で「おれたちは日本人だ。こんなことで死ぬな。みんな生きるんだ」と話すのが聞こえた。やがてその声はか細くなり、ついには聞こえなくなった。
折り重なった人々の下からようやく引っ張り出された二瓶さんが見たのは、上の方にいた人たちの焼け焦げた死体だった。さきほど自分をかばってくれたのは探していた父で、2人は地面に倒れた後、上に重なった人々に守られる形で焼け死なずにすんだのだった。
1945年、3月10日未明。二瓶さんはこうして、単独のものとしては人類史上最も多くの人命を奪った空襲を生き延びた。
空襲後の東京をとらえた空撮画像/Mondadori Portfolio/Getty Images
この東京大空襲では一晩で10万人が犠牲となり、100万人が負傷したとされる。その大半は民間人だ。米軍の爆撃機B29が300機以上飛来し、1500トン分の焼夷(しょうい)弾を投下した結果だった。
焼夷弾で発生した火炎は、約41平方キロを焼き尽くした。これにより100万人が住居を失ったとする推計もある。
死者の数は同年広島と長崎に投下された原子爆弾を上回る。米エネルギー省によれば広島ではおよそ7万人、長崎では4万6000人が原爆投下の犠牲となった。
だがこれほどの被害をもたらしたにもかかわらず、広島や長崎とは異なり、東京には公的資金を投じた大空襲の犠牲者の追悼施設というものが存在しない。また連合軍による独ドレスデンへの45年2月の空爆が民間人を標的にした作戦だったとして広く議論される一方、同じく75年目を迎える日本に対する空襲の影響については、依然としてほとんど知られていないのが実情だ。
B29の投入
二瓶さんがあの晩に味わった恐怖は、「ミーティングハウス作戦」と呼ばれる軍事作戦に起因する。米空軍による東京への一連の空爆の中でも最大の犠牲者を出したこの作戦は、45年2月から5月にかけて実施された。
作戦の大半は、太平洋地域の爆撃部隊の司令官を務めていたカーチス・ルメイが立案した。ルメイは後年、北朝鮮とベトナムへの空爆を行い、62年10月のキューバ危機ではソ連への核による先制攻撃を支持した人物だ。
第2次世界大戦が欧州で勃発した39年、当時のルーズベルト米大統領は参戦した各国政府に対し、民間人への爆撃は非人道的かつ野蛮であるとしてこれを行わないよう呼び掛けた。しかし45年までに、こうした方針は変化していた。
41年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃を受け、米国は報復を決断。42年8月の南太平洋ガダルカナル島への侵攻に続き、44年には日本軍占領地だったサイパン島、テニアン島、グアム島を立て続けに奪取した。
これらの島々を拠点に日本本土を攻撃する役割を担ったのが、最新鋭の重爆撃機B29だ。
もともとは米合衆国本土からドイツへの爆撃に使用することを想定していたB29。英国がドイツに敗れた場合はその任務に就くはずだったが、米国立航空宇宙博物館の学芸員、ジェレミー・キニー氏によれば、高速かつ高高度での飛行が可能で大量の爆弾を搭載できるその性能は、日本本土への攻撃にも適していたという。
飛行中のB29/Museum of the US Air Force
B29は、第2次大戦までの20年間で発展を遂げた航空技術の集大成といえる機体だった。内部は与圧され、空調も完備していたので、高高度でも搭乗員は酸素マスクなどを付けることなく軽装で作戦を遂行できた。このため大半の対空砲の射程外で爆撃を行え、敵戦闘機による即時の迎撃も難しかったとキニー氏は説明する。
ただ、当初計画された高度約9000メートルからの爆撃は目標への命中率がわずか20%と、十分な成果をあげられなかった。搭乗員らは悪天候での視界不良や、ジェット気流がもたらす強風のために爆弾が標的を外れると主張した。
これに対しルメイは、機体の高度を約1500~2400メートルに下げ、夜間に爆撃を実施するよう命令。編隊は1列縦隊を組むものとした。欧州における対独爆撃では、米軍は複数列の編隊による大規模空爆を昼の時間帯に行っていた。
さらに、おそらくもっとも重要だったと思われるのが焼夷弾の使用だ。通常の爆弾が爆破の衝撃や金属片によって標的を破壊するのに対し、焼夷弾は着弾すると内部に詰めた燃焼剤を放出する。木造建築物が大半を占める東京で、大規模火災を引き起こすことが狙いだった。
搭乗員らはルメイの命令に驚愕(きょうがく)した。1列縦隊では日本軍の戦闘機から互いを守ることができない。しかもルメイは機体から防御用の兵器をほぼすべて取り除き、より多くの焼夷弾を積み込めるよう命じてもいた。
作戦にかかわった部隊の記録からまとめた日記の中で、搭乗員の1人の息子、ジェームズ・ボウマン氏はこう書いている。「ほとんどの隊員はその日、ブリーフィングルームを後にしながら2つのことを確信していた。1つ、ルメイは気がふれている。2つ、多くの隊員とは今日限りで会えなくなるだろう」
空から降る炎
45年3月9日夜、サイパン、テニアン、グアムの各島からB29の編隊が飛び立ち、7時間かけ約2400キロの距離を北上。東京への空襲を開始する。
空襲を受ける東京の街。大量の煙と炎が立ち上る/The Center of the Tokyo Raids and War Damage
翌日の午前1時半から午前3時までの間、B29の主力部隊は計50万発のM69焼夷弾を投下した。1発およそ3キロのこれらの焼夷弾を38発ずつ収納した親爆弾が、東京の街に降り注いだ。親爆弾が空中で開裂すると、落下時の姿勢を安定させるためのリボンを付けた子爆弾が飛び出し、地面に到達。衝撃により内部の燃焼剤が発火する。
下町の亀戸で商店を営んでいた二瓶さん一家は当初、防空壕(ごう)に逃げ込んだが、「(中にいると)蒸し焼きになるぞ」という父の言葉で再び外に出た。防空壕から出たときの恐怖は想像を絶するものだった。そこでは何もかもが燃えていた。
空襲が終わり朝が来ても、まだ火は燃え続けていた/The Center of the Tokyo Raids and War Damage
道路は火の川と化しており、家々も、その中にある畳も布団もすべて炎の中だった。人々の体にも火がついていた。「燃えている赤ちゃんをおんぶしたまま走っているお母さんもいた」(二瓶さん)
上空ではB29の搭乗員らも熱風と火炎の威力を感じていた。前出のボウマン氏が引用した搭乗員の証言によれば、眼下に見えるすべてが真っ赤に燃え盛っていた。炎で熱せられた空気で飛行中のB29の高度が押し上げられる現象も起きた。
一方で日本軍は反撃に出ており、別の搭乗員の記録では曳光(えいこう)弾による対空射撃が縦横無尽に飛び交っていた。機体に砲弾が当たることもあったが、この搭乗員は気に留めず、焼夷弾の投下に集中した。
投下を終えると、この搭乗員の機体は海へ向かって飛び去った。東京から240キロ以上離れた太平洋上からもなお、空襲による炎の輝きが視認できたという。
この晩の空襲で、二瓶さんは親友を6人失った。前日の午後に一緒に遊び、次の日もまた会う約束をしていた仲間だった。
灰燼に帰した東京の街で呆然とたたずむ人々/Galerie Bilderwelt/Hulton Archive/Getty Images
過去を忘れないために
戦後生まれが日本国民の8割を占める現在、若い世代がこうした過去の出来事への関心を失ってしまうのではないかという懸念の声も上がっている。
江東区にある東京大空襲・戦災資料センターは、空襲の生存者のグループが少しずつ資金を集めて2002年にオープンした施設だ。東京大空襲の記憶を今に伝える展示のほか、中国・重慶での日本軍による空襲も扱っている。1938年2月から43年8月にかけて行われたこの空襲では、3万2000人が死亡し、民間人に多くの犠牲が出たといわれる。
人々を恐怖に陥れるこうした空襲は、現在もシリアやイエメンといった地域で実施されている。
「歴史が繰り返されるのではないかと恐れている」と語る二瓶さんは、上記のセンターができて初めて、自身の過去と正面から向き合う強さを手にすることができたという。
東京大空襲・戦災資料センターで展示資料を見つめる二瓶治代さん/Emiko Jozuka/CNN
最初にセンターに足を踏み入れた時、二瓶さんは2つの展示物を見て思わず息をのんだ。
ひとつは、折り重なって息絶えた人々の、焼け焦げた遺体を描いた絵画だ。あの日の記憶がよみがえるとともに、空襲でなくなったすべての人のため、何が起きたかを語り継がなくてはいけないと強く感じたという。
もうひとつは、東京の空と、そこに浮かんだ雲に腰掛ける子どもたちを表現した作品だ。「親友たちのことを思い出した。今もどこかで楽しく過ごしているのだろうと思わせてくれた」(二瓶さん)