旧ソ連最後の指導者ゴルバチョフ氏が死去、91歳
60年代初頭、スタブロポリ地方の農業部門の責任者に就任。60年代の終盤には同地方で党の序列トップに上り詰めた。
78年にはモスクワに戻り、翌年政治局員の候補に選ばれた。ソ連農業のかじ取りには成功せず、集団農業が根本的な欠陥をいくつも抱えていることに気付かされた。
80年から正式に政治局員を務め、82年に師のアンドロポフ氏がブレジネフ党書記長の後任に就任すると、ゴルバチョフ氏の影響力は強まった。腐敗や非効率と闘う姿勢で名を上げ、85年3月には党の最高位に上り詰めた。
ソ連経済の民間部門への重点移行を目指したゴルバチョフ氏は、欧米との軍拡競争の終結を訴えるようになった。
ただ、6年間の任期中、ゴルバチョフ氏の動きは特権を脅かされることを恐れた党の既成勢力の目には性急すぎると映り、一党体制と指令経済の廃止を求めた急進改革派からは遅すぎると見なされた。
改革路線の継続を模索する中で、ゴルバチョフ氏は経済危機の深刻さを見誤ったようだった。また愛国心の問題がはらむ力にも目が行っていなかったように見えた。グラスノスチは80年代後半にバルト諸国や他のソ連構成国で独立要求の声を強める結果となった。
ゴルバチョフ氏は外交面では成功を収めたが、それは主に世界からみた視点での話だ。他国の指導者は同氏を注目し、英国のサッチャー首相は「一緒に仕事ができる男」と評した。
86年にはレーガン米大統領とアイスランド首都レイキャビクで会談。米ソ両国が保有する長距離ミサイルの全廃という驚くべき提案をした。これが冷戦終結の発端となった。
90年にはノーベル平和賞を受賞。「国際社会の重要な部分を特徴付ける和平プロセスで先導的な役割を果たした」ことが授賞理由だった。
米ソ間で締結された「中距離核戦力(INF)全廃条約」はその後2019年までの約30年間、軍縮の柱となっていた。だが、米国は19年に正式に同条約から脱退、ロシア政府も条約はゴミ箱行きになったと発言した。
強硬派の反乱
ゴルバチョフ氏が米国と結んだ軍縮協定はソ連の利益にもかなうものだったとみられる。一方で、東欧圏の一部の国の離脱、ドイツ統一と新たな統一ドイツの北大西洋条約機構(NATO)入りは守旧派の共産党員を怒らせた。
91年8月には強硬派がしびれを切らし、ゴルバチョフ氏の休暇中に反乱を起こした。ソ連最大の共和国「ロシア共和国」の大統領だったボリス・エリツィン氏は当時、ゴルバチョフ氏の改革を中途半端とみなして批判的だったものの、クーデターの首謀者と対峙(たいじ)して失敗に追い込んだ。
だが、ソ連全土で共和国が相次ぎ独立を宣言し、91年12月25日、ゴルバチョフ氏はソ連大統領を辞任。辞任演説では「国は自由になり、政治的にも精神的にも解放された。これが最も重要な成果だ」と語った。これがゴルバチョフ氏のレガシー(遺産)となりそうだ。