パンナム:世界の空の旅を変えた国際航空のパイオニア
ミラー氏は「当時、国際市場で事業を展開していた米国企業は他にもあったが、パンナムほど外国での物事の進め方を見出す能力に長けた企業はほとんど存在しなかった」と述べ、さらに次のように続けた。
「当時、外国でビジネスを行うなら米国大使館に連絡した後、まずパンナムの支社長に会うべきだとよく言われた。それだけパンナムは現地の事情に精通していた」(ミラー氏)
そして60年代もパンナムは技術革新で航空業界の先頭に立った。その最たる例がコンピューターを使った飛行機・ホテル予約システム「PANAMAC」だ。
60年代は航空業界で超音速旅客機(SST)を求める動きが加速した。パンナムもその流れに乗り、英仏共同開発のコンコルドとボーイング2707に興味を示した。しかし、2707は開発計画が中止となり、コンコルドも飛行が大洋上のみに制限されたり、世間の評判が悪かったりしたことから、結局、パンナムはSSTの導入を見送った。
終わりの始まり
しかし、ファン・トリップは大型旅客機のボーイング747に可能性を見いだした。パンナムは747のローンチカスタマーとなり、70年に世界で初めて747を導入した。
ハーテフェルト氏は「パンナムは747を25機発注したが、後に25機は多すぎたことが判明した。パンナムが悪かったのではない。70年代初頭にオイルショックや不況など、悪いことが重なったのだ。しかしパンナムはそれらの飛行機の納入を遅らせるための十分な措置を講じなかった」と指摘する。
航空史家たちは、70年代後半の米航空業界の規制緩和がパンナムの運命を変えた重要な転換点だったと指摘するかもしれない。規制緩和により、競合他社はパンナムと同じ国際線を飛ばせるようになった一方、国内線をほとんど持たなかったパンナムは大型旅客機を米国内で飛ばせず、他社と競争できなかった。
パンナムは、ナショナル航空の買収後も有意義な国内線網を構築できず、買収はパンナムを待ち受ける避けられない結末を先送りしたにすぎなかった。そして追い打ちをかけるように、88年にスコットランドのロッカビー上空で起きたパンアメリカン航空103便爆破事件がパンナムへの信頼を揺るがした。
ハーテフェルト氏は「パンナムは航空業界の変化に対応すべき時に進化できなかった。実際、パンナムは80年代半ば以降、その華やかさを失った。パンナムは過去の自分から脱却しなかった、あるいはできなかった。そして急速に変化する環境にどう対応していいか分からなかった」と振り返る。
ハーテフェルト氏は30年前に飛んだパンナム最後の便をたたえ、オールド・ファッションドか、マンハッタンか、あるいはマルティーニで満たしたパンナム・グローブのロゴ入りのグラスを掲げる。
「パンナムが残した遺産は不滅だ。パンナムのような一流の航空会社に捧げるカクテルは一流でなくてはいけない」(ハーテフェルト氏)