特攻隊員の遺書に見る、米軍が恐れた若きパイロットたちの意外な素顔
鹿児島(CNN) 神風特攻隊と聞いて心に浮かぶイメージは、恐らく叫び声を上げるその顔をゴーグルで隠し、死への急降下を開始するパイロットの姿だろうか。
あるいは顔は全く浮かばず、ただ戦闘機1機が軍艦に突っ込むその状況かもしれない。
恐らくそれは、じめじめした半地下の掩蔽豪(えんぺいごう)で、自らの寝具に頭をうずめて涙に暮れる10代の少年の姿ではないだろう。
ましてや楽しげに子犬をなでる高校生たちでもないはずだ。このわずか数時間後、彼らが自分の体を焼き尽くしながら米軍の空母を沈める任務に就くとはとても思えない。
しかしこれらは紛れもなく、神風特攻隊員の素顔の一部だ。鹿屋航空基地史料館と知覧特攻平和会館の館内の壁は、彼らの写真で覆われている。いずれの施設も、所在地は九州の鹿児島県だ。
そこには何百人もの特攻隊員がいる。
多くの遺影には、本人の最後の言葉が添えられている。よく見られるのは母親あての手紙の中で、若くして亡くなる不孝を詫(わ)びつつ、誇れる存在になることを約束する内容だ。
米軍への特攻で命を落とした神風特攻隊員の写真を見つめる女性たち=知覧特攻平和会館 /David Guttenfelder/AP
彼らの中で最年少の特攻隊員、わずか16歳の田中泰夫2飛曹は、特攻兵器「桜花(おうか)」で出撃した。桜花は基本的には翼のついた爆弾で、車輪はなく、母機から落下する形で発射される。田中2飛曹は1945年5月11日に戦死した。故人の写真が飾られる鹿屋航空基地史料館は、現在の海上自衛隊航空基地の敷地内にある。
史料館の職員によると、田中2飛曹の最後の手紙は保管されていない。しかし他の若き特攻隊員の手紙からは、この年代特有の強気を誇示する態度が見て取れる。
18歳の加藤虎男少尉は、力強い毛筆でこう書いている。「お母さん 大元気で でっかい奴を沈めます」
最年長32歳の特攻隊員、伍井(いつい)芳夫陸軍中佐は1部隊を率い、45年4月1日に知覧基地最初の特攻出撃を行った。
後には妻と、乳児の男の子を含む幼い子ども3人が残った。知覧特攻平和会館が特攻について英文でまとめた冊子「The Mind of the Kamikaze」には、伍井中佐がこの男の子に宛てた最後の手紙が収められている。手紙は館内にも展示されている。
「勉強シテ 日本男子トシテ 陛下ノ御子トシテ 立派ニ成人シテ下サイ」。そう伍井中佐は記した。
冊子によれば、男の子がこの手紙を読むことはなかった。夫の死を知った妻は男の子にあげる母乳が出なくなり、男の子は栄養失調で4カ月後に亡くなった。
躊躇なく任務を受け入れる
知覧特攻平和会館のホールで、晴れた10月の午前中、伍井中佐のような物語に接すればほとんど誰もが目に涙を浮かべる。そこでは30人あまりの聴衆が神風特攻隊に関する説明に耳を傾けていた。日本語が分からなくても、スクリーンに写る画像と他の聴衆が見せる感情だけで、十分に涙はこみ上げてくる。
画像の中に、1匹の子犬をなでる若き特攻隊員の姿がある。多くの人が特攻隊にまつわるものとして最も衝撃的だと見なす画像だ。
そこに写るパイロットたちは17~19歳で、全員が「少年飛行兵」と呼ばれていた。彼らは14歳で訓練に参加。その当時には神風特攻隊はまだ創設されていなかった。
「自分たちが特攻隊のパイロットになるとは知らずにいた公算が極めて大きい」と、The Mind of the Kamikazeは少年たちについて記している。
「それでもひとたび自らの運命を悟れば、彼らは躊躇(ちゅうちょ)することなく任務を受け入れた」「祖国のため、両親のために死ぬのは価値のあることだと信じていた」(同)
子犬と共に写真に写る5人の少年は、45年5月27日に戦死した。彼らを含め、335人の少年飛行兵が神風特攻隊として命を落とした。
再現された掩蔽壕の内部。特攻隊員らはここで出撃前の最後の一夜を過ごした=知覧特攻平和会館。出撃後の清掃に当たった作業員からは、寝具が涙で濡れていたとの報告が寄せられたという/Brad Lendon/CNN
知覧特攻平和会館の壁には1人の米国人の写真も展示されている。高野正治(まさじ)大尉だ。
ハワイ生まれの大尉は日本人女性と結婚し、大学進学のため来日。神風特攻隊に召集されたと、The Mind of the Kamikazeは説明する。
本人の最後の手紙には、急降下する機体の絵が描かれている。添えられた文面は「目標ハ敵空母 必中必沈 必ズ轟沈ダ」。
高野大尉には兄弟が3人いた。1人は日本のために戦い、残る2人は米軍に加わって欧州で戦ったという。
米海軍の最も恐るべき敵
「神風」の語は13世紀、大型の台風が日本に襲来した蒙古の船団を沈めた故事にちなむ。日本の防備は手薄だったが、天候が味方したおかげで蒙古との戦闘による壊滅的な被害を免れた。
時代は下り、太平洋での戦況が厳しくなった1944年、爆弾を搭載した航空機で米軍艦に体当たりする「特攻」戦術を、大西瀧治郎海軍中将が創始。米軍の記録によると、日本本土を米艦隊の侵攻から守る最後の手段として導入された。
平和会館の提示する数字では、合計1036人の少年、男性が、陸軍の特攻隊員の一員として戦死した。
鹿屋航空基地史料館で見られる戦闘機の操縦席。神風特攻隊で使用されたのと同型の機体だ/Brad Lendon/CNN
海軍では1584人が出撃し、特攻で命を落としている。
陸海軍を合わせた特攻出撃は、1730回を超える。
彼らが米海軍にもたらした損害は、容赦のないものだった。
米海軍歴史センターは、45年4月1日から6月22日までの沖縄戦を同軍史上最も多くの犠牲を出した戦闘と呼んでいる。
米国防総省によると、沖縄戦で死亡した兵士1万2000人のうち約40%は特攻で沈められた米軍艦26隻や、特攻で損傷した168隻に乗艦していた。
45年までに、米軍は自分たちが帝国陸海軍からの容赦ない自爆攻撃にさらされていることを十二分に理解した。これらの軍隊は、強力な軍国主義と天皇への忠誠を原動力に、東南アジア全域で過酷な統治を展開していた。
恐らく最も悪名高い大規模な玉砕攻撃は、その1年前に太平洋のサイパン島で起きた。戦場での勝利が不可能と悟った4000人近くの日本兵は、優位に立つ米軍めがけて捨て身の襲撃に打って出た。
「彼らは、司令官である斎藤義次中将の最後の命令に従った。中将は全軍による突撃を命じて天皇への敬意を表し、その後自決した」。2016年にアトミック・ヘリテージ財団のウェブサイトに投稿された記事にはそうある。
沖縄の地上戦でも、同様の玉砕攻撃が小規模ながら展開された。ただ日本側で生き残ったキンジョウ・シゲアキさんは、当時の心理を形成していたものを以下のように回想したとされる。
当時は1億人の日本国民が最後の1人になるまで戦うことを覚悟していたというのがキンジョウさんの考えだ。誰もが死を覚悟しており、天皇に完全服従するという教えが死を強調する中、命は軽んじられた。天皇のために遠くの島で死ぬのだという思いは、結果的に全く新しい一体感を生んだという。
特攻隊員たちの聞き役
知覧飛行場の特攻隊員たちは、しばしば最後の夜を「富屋食堂」で過ごした。店主の鳥濱トメさんは、よき話し相手として、多くの隊員から信頼される存在になった。中には、軍の検閲を受けない形で家族に送る最後の言葉をトメさんに託す隊員もいた。
トメさんの家族はそうした手紙や遺品の一部を、知覧にある別の小さな博物館で保管している。平和会館から車で少しの距離にあるその施設は、「侍」に対する見識を一段と深める意味で足を延ばす価値がある。
しかしその前に、トメさんのひ孫に当たる鳥濱拳大(けんた)氏が料理長を務める「知覧茶屋」に立ち寄ろう。拳大氏は訪れた人に曽祖母のことや特攻隊員についての話を喜んで聞かせてくれる。
特攻隊員と曽祖母の物語が忘れられないようにするのが重要だと、拳大氏は訪れる人に伝えている。
「知覧茶屋」の前に立つ鳥濱拳大氏。曽祖母の鳥濱トメさんは、神風特攻隊員にとって気心の知れた聞き役だった/Brad Lendon/CNN
ただもっと多くの外国人に来てほしいというのが、拳大氏の願いだ。外国から訪れる人の割合は全体のわずか5%で、アジアの国々からの訪問客となるとさらに少なくなるという。
日本人にとって特攻隊員は国を守った人たちと映るが、外国人は彼らを敵と考えると、拳大氏は示唆する。
それでも拳大氏によると、特攻隊員たちの最後の手紙は教訓に満ちている。とりわけ戦争の愚かさと悲劇がそこに表れているという。
全ての教訓を学ぶことができれば、今日の世界はもっと平和になるはずと、拳大氏は語る。
ラストサムライ
鹿屋と知覧の施設は、共に九州南端の鹿児島県に位置する。
特攻隊員が飛び立った第2次大戦時の飛行場がそこにあるのは、沖縄まで短時間で移動できること、燃料も可能な限り節約できることが理由だった。特攻機は台湾やフィリピンにあった日本軍の基地からも出撃している。
しかし鹿児島が特攻隊員にふさわしいのは、そこが日本の武士階級による最後の抵抗の地だったからでもある。
当時の士族たちが明治新政府に対して起こした西南戦争は、伝説的な侍、西郷隆盛の鹿児島・城山での死で幕を閉じた。1877年9月のことだ。
丘陵に陣取ったものの、西郷率いる約400人の軍勢は、新政府軍の1000倍近い兵力に敗れた。
歴史を愛好する旅行者にとっては、希代の侍が最後の抵抗を繰り広げた地でゆっくりと過ごすのもまた価値ある楽しみ方の一つだ。
知覧特攻平和会館の外に展示された日本の軍用機。特攻隊員の像と共に/World Discovery/Alamy Stock Photo
現地への行き方
知覧特攻平和会館と鹿屋航空基地史料館は九州南端の二つの半島にそれぞれ位置しており、車でのアクセスが最も便利だ。レンタカーは鹿児島市で簡単に利用できる。鹿児島市があるのは二つの半島のうち西の方、薩摩半島だ。
鹿児島にも小規模な商業空港はあるが、空路ならより大きな福岡の国際空港を使う方が訪れやすいかもしれない。福岡から鹿児島までは、九州新幹線で90分の距離。