(CNN) 「我々の指導者は永遠に」。これは現在のシリア大統領の父親であるハフェズ・アサド氏の大統領時代にシリアでよく目にしたスローガンだった。
気難しく厳格なシリアの指導者が永遠に生き続けるという見通しは、1980年代後半から90年代前半にかけてシリア・アレッポで暮らし働いていた筆者のシリアの友人の多くにとって、暗いユーモアの源泉だった。
ハフェズ氏は2000年6月に死去した。結局、ハフェズ氏は不死身ではなかった。
しかし、ハフェズ氏の政権は息子のバッシャール・アサド氏の指導の下、存続している。
バッシャール氏の政権の存続が危ぶまれた瞬間もあった。11年に「アラブの春」と呼ばれた民主化運動が中東全域に広がり、チュニジアやエジプト、リビアで独裁政権が倒れ、イエメンやバーレーン、シリアで大規模な抗議デモが発生した。アサド政権の墓碑銘を書き始めるものも出た。
しかし、シリアの同盟国が救援に向かった。イランやロシア、レバノンの武装組織ヒズボラだ。シリアでは過去数年にわたり、腐敗した残忍な政権と、分裂してときには極端な反政府組織との間の戦いが凍り付いたように見えていた。
かつては中東の独裁者から敬遠されていたバッシャール氏も、中東の政権がお互いに示す怪しげな尊敬の念を徐々に取り戻しつつあった。
政権の座に就いてから16年後の1987年11月、ダマスカスで車上から群衆に手を振る故ハフェズ・アサド氏/Ali Jarekji/Reuters
シリア内戦の悪夢は終わりを告げたのか。バッシャール氏が勝利を納めたのだろうか。確かに、多くの人々がそう考えていた。シリアの大部分は、米国が支援するクルド人民兵と、トルコが支援するイスラム教スンニ派によって支配されていたにもかかわらず。ヒズボラやイラン、ロシアが政権を支えている。米国がシリア東部の一部を支配下に置いていた。イスラエルは、いつでもどこでも、適切と判断した場合に空爆を実施した。そして、過激派組織イラク・シリア・イスラム国(ISIS)は敗北したものの、奇襲攻撃を仕掛けている。
シリア政府がまだ存続していること自体が偉業のように思えた。
しかし、それは政権の勝利という幻想であり、反体制派によって粉々に打ち砕かれた。今回の攻撃を主導したのは過激派組織「シャーム解放委員会」(HTS、旧ヌスラ戦線)で、イドリブ県で攻撃を開始し、わずか72時間でアレッポ市の中心部まで攻め入ることに成功した。
11月30日の夜までに、SNSのシリアのアカウントは政府軍が北部全域で崩壊し、反体制派が中部のハマ市にまで前進していることを伝えていた。同地では1982年初めに、ハフェズ氏が、軍隊と情報機関を使って反政府勢力の数千人を殺害した。イスラム組織「ムスリム同胞団」が主導した反政府活動を終結させたのがハマ市だった。
なぜ、わずか数日で、ダムが決壊したのだろうか。
11月30日、アレッポ中心部のマーケット広場に掲揚されたシリア反体制派の旗/Muhammad Haj Kadour/AFP/Getty Images
明白な原因としては、主要な同盟国であるロシアやイラン、ヒズボラがいずれも圧力に直面して警戒を緩めたということだ。
ヒズボラは内戦の暗黒時代に政権を強化するうえで重要な役割を果たした。しかし、昨年10月のイスラム組織ハマスによるイスラエルへの奇襲以降、イスラエルと戦うために部隊の大部分を撤退させた。さらにイスラエルによる攻撃で、組織の幹部の多くが死亡した。
ロシアもシリア政府を支えるうえで重要な役割を果たした。ロシアは2015年9月にシリアに軍隊や戦闘機を派遣していた。しかし、今、ロシア政府にとって最も優先度が高いのはウクライナでの戦争だ。最後にイランだが、シリアにいる軍事顧問や基地はこの1年間、イスラエルによる攻撃を繰り返し受けている。
さらにその先には、寿命という基本的な現実がある。アサド王朝は1971年以来、53年にわたり権力を握り続けている。生き残ったというだけでも立派だが、それ以外に目を向けるようなものはほとんどない。
2011年に内戦が勃発する以前から、汚職と管理不行き届きが蔓延(まんえん)して、経済にとっての重荷となっていた。その後も、平均的なシリア人の暮らしは悪化の一途をたどっている。内戦によって数十万人が死亡したほか、数百万人が国内での避難や亡命を余儀なくされている。
1971年以来、アサド王朝は何度も国内外の試練を乗り越え、生き延びてきた。しかし、政権も指導者も、永遠に続くものはない。すべてはやがて終わりを迎える。
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本稿はCNNのベン・ウェデマン記者の分析記事です。