アンネ一家の米国移住計画、官僚制度や戦時の状況に阻まれる
(CNN) 「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの一家は米国移住を模索していたものの、「米国の官僚制度と戦争、時代」に阻まれて実現しなかった――。オランダの博物館「アンネ・フランクの家」と米ホロコースト記念博物館がこのほど、そんな調査結果を発表した。
これによれば、一家は米国のビザ(査証)を二度にわたり申請し、アンネの父親オットー・フランクはキューバのビザも申請していた。だが、こうした試みは移民当局者の警戒心や戦時の状況、米欧の官僚制度の壁に阻まれたという。
オットーはニューヨーク在住の友人に宛てた手紙で、「移住を模索せざるを得ない状況だが、私の知るかぎり行き先は米国しかない」とつづっている。
アンネは13歳のとき、ナチスから逃れて家族とともにアムステルダムの隠れ家での生活に入った。隠れている間に日記をつけ続け、強制収容所で死亡した後の1947年に父親が出版。この本は今でも世界で最も読まれる1冊となっている。
両博物館の歴史家は今回、新たな文献を調べ、聞き取り調査も実施。この結果、一家が38年ごろに多くの書類を集め、ロッテルダムの米領事館でビザを申請していた様子であることが分かった。
しかしこの領事館は40年、一家が回答を待つ間にドイツの爆撃で破壊された。領事館再開後も、申請手続きが進められることはなかったという。
オットーは再び書類集めを開始したものの、ドイツの西欧侵攻を受けてビザ申請が急増。移民をめぐる規則は厳格になり、最終的には米国によるドイツ外交施設閉鎖への報復として、同領事館などは閉鎖された。
さらに、米国世論もドイツをはじめとする国からの移民増加を歓迎しなかった。これは一部には、スパイ潜入への警戒心が原因だった。
オットーはそこでキューバに目を向け、「米国移住への足がかり」に使おう考えた。だが、この申請は真珠湾爆撃の4日後に取り消された。