エリザベス2世死去、戦争と家族の混乱乗り切った英国の女王
戦時の自由
第2次世界大戦が勃発する中、エリザベス女王は静かに君主としての資質を育んでいった。
ロンドン大空襲を近郊のウィンザー城で生き延び、風変わりだが尊敬されていた教師ヘンリー・マーテンから政体に関する個人指導を受けた。
公人としての生活への一歩をおずおずと踏み出したのは14歳だった40年。紛争で家を失った子どもたちに向けて初めてラジオ放送で演説を行った。16歳の時には英陸軍歩兵連隊の名誉大佐に任命された。
戦時中という状況は、伝統的な王室生活の制約を越えたある種の自由を得る機会をももたらした。
45年に補助地方義勇軍に参加し、4週間にわたり手を油とグリースまみれにさせながら軍用車両の運転と整備を学んだ。欧州で勝利が宣言されると、制服のままバッキンガム宮殿の外で歓喜に沸く群衆に紛れ込んだ。
平時になり、ギリシャとデンマークの王子だったフィリップ公が帰還。海軍将校だったハンサムなフィリップ公は、エリザベス女王がわずか13歳のときにその心を射止めていた。2人は47年にウェストミンスター寺院で結婚。そのわずか1年後に長男のチャールズ皇太子が誕生した。
若々しい君主
ジョージ6世の健康状態が急速に悪化する中、公務を引き受ける機会が増えた。49年には陸軍連隊の年次パレードにジョージ6世に代わって出席する場面もあった。
52年、夫妻でケニアを公式外遊中にジョージ6世の訃報(ふほう)が届き、エリザベス女王は即位した。
戴冠式後にバッキンガム宮殿のバルコニーから群衆に手を振るエリザベス女王とフィリップ殿下=1953年6月2日/Keystone/Hulton Royals Collection/Getty Images
続く10年間で、若き君主は自らの役割に慣れていった。53年の戴冠後、女王は数多くの外遊に出かけ、議会開会式を取り仕切り、英国を訪れる各国首脳を歓迎した。当時のアイゼンハワー米大統領、ドゴール仏大統領、ソ連のフルシチョフ首相といった面々だ。さらに国内の炭鉱の視察も行った。
64年には第4子のエドワード王子が生まれたが、スケジュールの多忙さはほとんど変わらなかった。
即位後30年を迎えるまでに、エリザベス女王は本領を発揮していた。チャールズ皇太子は軍でのキャリアを築き始め、名高い騎手だったアン王女は結婚。大勢の人々が祝福した。
女王自身も乗馬を楽しみつつ、公務に身をささげる生活が続いた。数十の外遊をこなし、英国中を訪問。そうした旅の中で、76年には初めて電子メールを送る人物の一人にもなった。
妹の結婚の破綻(はたん)や、英連邦諸国で君主の役割についての議論が拡大するなどの問題もあったが、それらが即位25周年を迎えた77年の祝賀ムードに水を差すことはなかった。
81年にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式がロンドンのセントポール大聖堂で挙行された。世界中の人々が式の様子をテレビで視聴し、幸福感を味わったが、これが女王の人生で極めて不穏な時期の始まりになるとはその時点で知る由もなかった。