冷戦最盛期、中国がU2偵察機5機を撃墜した時代<下> 暗号名「カミソリ」
64年7月には中国の澄海上空で、李南屏中校の乗るU2が人民解放軍のSA2ミサイルによって撃墜された。台湾国防部によると、李氏はフィリピンにある米海軍航空基地から出撃し、中国から北ベトナムへの補給路について情報入手を試みていたという。
67年9月には中国・嘉興上空で、人民解放軍のミサイルが黃榮北上尉の操るU2に直撃。69年5月には、河北省沿岸部を偵察中、張燮少校が黄海上空で制御不能になった。台湾国防部によると、このU2の残骸は見つかっていない。
中国共産党によって拘束
この他にも台湾のU2操縦士2人が撃墜されたものの、一命を取り留め、中国共産党に長年拘束されることになった。
63年11月には、葉常棣少校が江西省九江の上空で撃ち落とされた。
2016年に亡くなった葉氏は台湾国防部が出版した黒猫中隊の口述史で、「ミサイルの爆発で左翼の一部が失われ、機体は制御不能になった。機体はらせん状に落下した。多数の破片が機体に飛び込み、私の両脚に直撃した」と振り返っている。
拘束後、中国人の医師が破片59個を摘出したものの、すべての破片を除去することはできなかった。
「日常生活にはそれほど影響なかったが、冬の間は脚が痛み、動作に支障が出た。このことは一生忘れないだろう」(葉氏)
65年には内モンゴル上空で張立義少校の乗るU2がミサイルの直撃を受けた。張氏も破片数十個によるけがを負い、緊急脱出して雪景色の上に着陸した。
「当時は暗く、どのみち助けを求めることはできなかったため、パラシュートをしっかり体に巻いて暖を取った。10時間後に夜が明けると、移動式テントでできた村が遠くに見えたので、そこまで足を引きずっていき、助けを求めた。ベッドにたどり着いた瞬間、私は崩れ落ちた」。張氏は口述史の中でこう振り返っている。
葉氏も張氏も死亡したとみなされ、その後数十年間、台湾の地を再び見ることはなかった。最終的には82年、当時英国の植民地だった香港で解放された。