ロシア軍受刑者部隊「ストームZ」、貴重な証言が浮き彫りにする過酷な戦場
ロシア軍の塹壕では日常生活も恐怖だった。食事の大半は缶詰の肉にインスタント麺を加えたものだったが、最も難しいのは水の入手だ。「水を手に入れるには3~4キロ歩かねばならなかった。飲まず食わずの状態で数日が過ぎることもあった」。冬は雪解け水を飲んで生き延びたという。「あまり気持ちいいものではなかったが、やむを得なかった」
規律は処刑によって保たれた。「指揮官が人員を『リセット』することもあった。指揮官が人員を排除、つまり殺害する。1度だけ見たことがある。塹壕内で盗みや殺しを働いた男と争いになった。周囲の4人のうち誰が発砲したのかは分からない。ただ、彼が逃げようとすると、後頭部に銃弾が直撃した。頭部の傷が見えた。兵士たちが男を運んでいった」(セルゲイさん)
「ただ自由を求めて」
死亡したアンドレイさんの場合、前線で恐怖を味わった時間は短かかった。母親のユリアさんは、23歳で前線に送られた息子は「まだ一人前の男ではなかった」と語る。天候について冗談を言うボイスメッセージ、そして少年の面影が残る軍服姿からは、醜い世界に巻き込まれた若者の心が垣間見える。
「息子は提示された金額を覚えていなかった。確認しなかったと言っていた。お金目当てだったとは思えない。ただ自由を求める一心だった。息子は9年半の長期刑を科されていて、これまでに3年を務めていた」
ユリアさんは、ウクライナの占領地にある訓練場で急きょ突撃戦術を学ぶアンドレイさんの映像を見せてくれた。無精ひげ姿を捉えた静止画もある。大きな迷彩柄のヘルメットの下から日に焼けた顔がのぞき、軍のトラックの後部に乗っている。前線にいた時間はわずかだったため、残された写真は少ない。
所属部隊が前線に送られるというメッセージがアンドレイさんから送られてきたのは5月8日だった。場所は東部の最激戦地のひとつ。突撃は5月9日の夜明けに始まる予定だった。現代ロシアでは5月9日は祝日で、旧ソ連によるナチス撃退を記念して赤の広場で盛大な軍事パレードが行われる。プーチン大統領が取り仕切った今年の式典は規模を縮小して開催されたが、専門家の間では、ロシアの兵器が損傷中か、ウクライナの前線に配備されているためだと指摘する声が出ている。
ユリアさんは涙ながらに最後のやり取りを振り返る。「息子と言い争いになった。恐ろしい言い方だが、私はすでに息子は死んだようなものだと思っていた。息子は全ての事情を知りつつ(ロシアを)離れた。私は毎日、『行ってはダメ』と言い聞かせたが、息子は聞く耳を持たなかった。『これから突撃する』と告げられたので、『森に逃げなさい』と書いて送った」
その後、携帯電話の使用が限られている他の前線の受刑者と同様に、アンドレイさんも完全に消息を絶った。後日、ユリアさんは流刑地で軍に採用された他の受刑者の親族から、1回の突撃で最大60人が死んだと告げられた。この数字を裏付けるのは困難だが、こうした受刑者部隊について報告されている異常に多い死傷者数と符号している。
ユリアさんは遺体も遺品も受け取れなかった。唯一送られてきた国防省の書簡には、刑務所を離れて前線に向かった日がアンドレイさんの死亡日として記されていた。
「最もつらいのは、息子が人を殺すのではないかという恐れがあったことだ」。ユリアさんはすすり泣きながらそう語った。「ばかげているようだが、戦争を経験した息子が殺人者として戻ってくるのが怖かった。麻薬中毒の息子となら一緒に暮らせるが、殺人者の息子とは暮らせない。このことを受け入れるのは難しかった」