(CNN) ここへ来てまたしても、米国のトランプ前大統領にまつわる新たなスキャンダルが噴出した。いつものことと、片付けたくなるのも当然だ。しかし今回の件には、これまでと違う衝撃をもたらす何かがある。
ゴータム・ラオ氏
過去においてトランプ氏がはたらいたとされる悪事は、たいていの場合まず何よりも自分自身に関するものだった。自らの富や権力の拡大、あるいは自身を法律から守ることを念頭に置いていた。諜報(ちょうほう)活動取締法に違反し、機密文書を保持していた疑いがかかったことで、トランプ氏(本人は不正行為を否定)は事態を格段に険悪な次元へと進めてしまった。政府記録の保持に関する歴史をざっと眺めれば、トランプ氏が我が国の政治システムと法の支配そのものを鼻で笑っているのが分かる。
ジャック・スミス特別検察官による起訴と記者会見は、凄まじいまでの詳細さで前大統領に対する罪状がいかに深刻なものであるかを明らかにした。トランプ氏がホワイトハウスから自宅へ持ち去ったとされる機密文書の中には、米国の軍事についての深い秘密事項が含まれていた。核計画に関する内容さえあったという。法律上、トランプ氏にはこれらの文書を国立公文書館へ返還する義務があり、本人もそれは十二分に理解していた。何しろ検察が入手したトランプ氏の音声記録の中で、同氏は機微な内容の軍事情報を機密解除することなく保持していると認めているのだから。
より哲学的なレベルでは、トランプ氏が取ったとされる行動から別の問題が浮かび上がる。つまりそれらの行為を通じ、我が国の政府がどのように機能するかについて説く基礎理論が軽蔑の対象になっているという問題だ。
数百年前であれば、1人の政府当局者が公職から退くときには、任期中の記録を持ち去るのが習慣になっていた。それはエリート主義的な権力理論を踏まえた行動だった。
当時は上流階級の有力者が決まって保安官、収税吏、警察幹部などの要職に収まった。彼らは自らの地位をそうした職務の遂行に活用することを期待された。人々が彼らの地位と権力に従ったからだ。往々にして彼らは自宅で仕事をした。政府の仕事と、彼らの日常生活との間に区別はなかった。
要するに、彼らにとって政府の仕事というのは極めて個人的な事柄だった。公共の利益を提供する存在だとしてもそれは変わらなかった。統治に対するこうした考え方は、米国の独立革命や建国の時代になっても断然主流だった。
しかし19世紀に入ると、新しくより近代的な統治の概念が徐々に優勢となる。恐らくこの動きは名高いドイツの社会学者、マックス・ウェーバーにより最も適切に説明されるだろう。ここで新たな観点が生まれ、政府の仕事は自宅の外で行われるようになった。代わりに使用されたのが庁舎や事務局というわけだ。
このような新しく近代的な視点で国家を理解するにあたり、政府の役職はそれに従事するであろう個人とは異なるものとして認識されることが極めて重要だった。公職にある者は今や、明確な管理規定によって任務を果たすことを期待されるようになった。それが自らの地位や個人的な権力にものを言わせる手法に取って代わった。
やがて政府職員のプロ化は、公務員の出現、官僚機構のエキスパートの登場、行政法の確立をもたらすことになる。20世紀には、フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策と行政手続法が土台となり、一段と複雑かつ制御された政府組織のシステムが作り上げられた。
1978年の大統領記録法は、ニクソン大統領のウォーターゲート事件に続いて成立した。同法もまた、進化を遂げるシステムの一例だ。事件の発覚後、弾劾(だんがい)を避けるため辞任したニクソンは、大統領在任中の記録を保持することで残された自らの名声を守りたいと考えた。74年、連邦議会でニクソンの記録保持の阻止に特化した法律が成立。数年後には大統領記録法がこれに続いた。この法律は大統領の記録を公文書と明確に指定している。現在、大統領の記録は米国民のものだ。それらを生み出した本人であろうと、大統領個人には帰属しない。
こうした歴史的背景を踏まえれば、トランプ氏による直近の悪事の実態が見えてくる。それは法の支配を根底から拒絶する行為に他ならない。この観点から、トランプ氏の行動を保守派による連邦政府解体の取り組みの一環と捉えることができるかもしれない。政府から行政権を取り去るのが狙いだ。しかし、トランプ氏はそのさらに先を行く。なぜなら同氏にあるのは信念に基づいたイデオロギー的な宣言ではなく、自分は法律を超えた存在だという単純な発想だからだ。国王や大臣、そして自分本位な公職者らが数世紀前からそうだったように、法律に対する優越という考えがそこにある。
自身の政権下の公式記録を自分の「書類」だと言い張ることで、またそれらを自分の好きなように扱えると訴えることで、トランプ氏は過ぎ去った時代を思い出させてくれる。当時の政府は富裕で権力を持つ者たちの独壇場だった。またエリートたちは、自分たちの書類を手元に置いていた。公務に従事した日々を振り返る、特別な思い出の品として。
果たして我が国は、今なお法治国家と言えるのだろうか。それともトランプ氏の時代によってあまりもこっぴどく打ちのめされ、遠く離れて見える過去へと逆戻りするのも辞さない国になったのか。この点を考慮すると、ドナルド・J・トランプ氏の最新の裁判は、単なる法律用語以上のものになる。文書の分類と、記録の保持に関する政府の手順を扱うだけでは済まなくなる。ここで問われているのは、まさしく法の支配に他ならない。
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ゴータム・ラオ氏は米アメリカン大学の准教授で米国史と法制史を専攻する。法制史を扱う学術雑誌の編集主幹を務める他、建国期の米国に関する著書もある。記事の内容は同氏個人の見解です。